七月二日、呉地区はB29の大空襲を受け、我々の思い出の多いこの町が灰燵に帰した。そして一〇日の早朝から関東地区に大編隊を繰り出して攻撃をかけた敵機動部隊は洋上補給を行ないながら二旬にわたり、日本全土をくまなく空襲し、主要都市に艦砲射撃を加えて去った。 二〇年四月に竣工したばかりのイ号351潜は一か月半の就役訓練を実施した後の五月末、昭南(シンガポール)への作戦輸送に任じ、既に敵の完全制空下にあり敵潜の出没もしきりであったこの航路をよく突破して目的地に到達、帰路には航空用燃料四〇〇トンその他重要物資を搭載の上、六月中旬佐世保に帰投した。この成功は、部内全般の絶讃を浴びた、と青木滋の手記に記録されている。 この艦の艦長は岡山登少佐であり、宮本由松大尉が航海長として乗艦していた。続いて第二回の作戦輸送命令が出て、六月二二日佐世保を出撃、目的地シンガポールに到着、帰りにはまた航空用燃料を満載し七月一一日現地を出発した。 帰途に就いたこの艦に、四月一五日附でロ号115潜から佐世保鎮守府附となり、一時ペナンの第一五特別根拠地隊附となって内地への便船を待っていた松永謙徳大尉が便乗していた。 シンガポールを出港したこの艦はそのまま消息を絶って行方不明となってしまい、戦後になるまでその行動は不明なままであった。南支那海に綱を張っていた米潜ブルーフィッシュ号に捕捉され、出港三日後の一四日、北緯四度三〇分、東経二〇度○分で撃沈されていた。 |