イ号165潜は、回天特別攻撃隊「轟隊」の殿艦として六月一五日に呉を出撃、サイパン東方海域にあって洋上航行中の敵艦船を目標とする回天作戦任務を与えられた。 仁科関夫中尉や加賀谷武大尉(いずれも当時の階級)などが行なった回天攻撃は、敵泊地に突入する戦法であったが、この時期になると泊地の警戒が厳重で泊地奇襲が不可能となり、敵海上交通路に待機して近接する艦船を攻撃する洋上攻撃に変っている。泊地侵入も大変であったろうが、大洋でケン粒ほどの回天が母潜水艦から指令されるとはいえ、低い潜望鏡で航走する艦に接近することは至難なことであった。一度発射されれば命中するも死、命中しなければそれにも増した死の苦しみが待っていた。 轟隊の僚艦中イ号361潜には野元佑一と山口孝彦の二期友が乗艦し既に行方不明となっていた。そして宮ノ原大尉の隣の哨区には萩原和雄乗艦のイ号36潜が展開していた。 この海域が選ばれたのは、敵の警戒が手薄であり、後方撹乱と補給路遮断が容易であると考えられたためであつた。萩原和雄の乗艦は、新鋭艦で六基の回天を搭載していったが、この165潜(艦長大野保四大尉)は建造以来一五年を経た老齢艦であり、二基の回天しか搭載できなかった。普通ならば練習艦等に使用される艦齢に達していたが戦局がそれを許さず、多くのハンデーを背負いつつ、開戦以来常に敢闘してきた。常広栄一がこの艦に乗艦中にビアク島作戦に参加し、敵の長時間の制圧に耐え脱出してきたこともあったという。宮ノ原大尉は、基地を出撃するイ号165潜航海長常広栄一の後任者として一九年一〇月航海長に着任した。 この艦が消息を絶ったのは六月二七日以降であり、この時隣の哺区におった萩原和雄は”作戦中のイ号165漕が敵の攻撃を受けて苦戦しているらしい敵信を傍受した”と回想し、自らも敵の制圧に会い沈没直前の体験をしたが、虎口を脱し帰還している。 敵の有力艦船に回天攻撃を敢行し多大の戦果を挙げたことが敵信傍受の結果認められたが、このことがかえって自らの位置を示すこととなり、反撃の端緒となったのであろう。呉出撃以来一度の連絡もなく消息を絶ち、七月二六日喪失と認定きれた。 戦後の米資料には”六月二七日、米海軍第一四二哨戒爆撃飛行隊の陸上哨戒機が発見し、爆撃撃沈”となっており、サイパンの真東約四七〇浬の北緯一五度二八分、東経一五三度三九分の海面である。 追記 戦没者銘牌 |