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沖縄作戦での回天搭載艦の出動
ロ56潜・三枝一徳大尉 & イ44潜・佐藤俊夫大尉
&  56潜・神保正夫大尉



海軍少佐 三枝一徳の戦歴
 山城 三三駆隊附 長門 11期潜学生 イ135潜 ロ56潜 
 二〇年四月一二日 戦死(公報一五日)二二オ
 県立刈谷中学校(愛知)
父平吉 母孝女
 第三八分隊の電機係倶楽部係




海軍少佐 神保正夫の戦歴
 長門 木曽 イ155潜 11期滞学生 イ56潜
 二〇年四月一八日戦死(公報五月二日) 二ー月
 広島高師附属中学校
 父勉一(海軍少将) 母晴代
 第二七分隊の伍長補 通信係 軍歌係
 


海軍少佐 佐藤俊夫の戦歴
 日向 山城 鹿島 イ176潜 11期潜学生 イ44潜
 二〇年四月二九日戦死(公報五月二日) 二二オ
 県立鶴岡中学校(山形) 
父順治 母龍
 第三〇分隊の伍長 図書係

 (戦況)

 敵の沖縄攻略が切迫していた時点、米本土西岸で敵の補給路の速断に当っていたイ号8潜と同様の任務のためマーシャル、カロリン、比島各方面に出動していたロ号41、47と56潜(三枝一徳)に対し、その作戦を中止して沖縄方面に進出する命令が↑り、更に配備点に移動中の各艦に対し三月二五日附で沖縄の南東約二〇〇浬附近の敵飛行機発進予想地点を中心とする海面で逝撃する新しい指令が出された。

海軍少佐 三枝一徳の最期


 この新しい命令により行動していたであろう三枝一徳大尉の乗艦するロ号56潜(艦長永松正輝大尉〉は前出の各艦ともどもその後連絡を絶ち、行方不明となってしまった。

 戦後ロ56潜は、四月一二日、沖縄の南東で米駆逐艦に捕捉撃沈されたことが明らかになったが、細部については明らかでない。
 
 三月二七日にイ47潜、53潜、58潜の各潜そしてイ44潜(佐藤俊夫)と56潜(神保正夫)の五隻で回天特別攻撃隊「多々良隊」が編成され、指定を受けたこれらの各潜水艦は各各六基の「回天」を搭載して、内海西部を出撃し、沖織方面在泊の敵機動部隊をもとめて南下した。

イ号47潜 三月二九日索敵中に敵の制圧を受けて被害発生、四月一日呉に帰着した(菊池貞彦乗艦)。

 イ号58潜 三月三〇日内海西部の周防灘で敵の敷設した機雷に触雷し大破、編制から除かれたイ58潜 警戒厳重で泊地進入は困難であると報告してきた。この報告によって、泊地への回天突入戦法を中止し、沖縄とマリアナを結ぶ三〇〇浬附近にあって待機し、洋上航行中の目標を攻撃することにされたのである。同艦は四月三〇日具に帰投した。

神保正夫大尉の最期

 このような情勢下に神保正夫大尉の乗艦イ号56潜も三月三一日、そして佐藤俊夫大尉の44潜も四月三日それぞれ大津島から出撃していったが、両艦とも出撃後何らの報告もなく、ニー日の帰投命令にもかかわらず帰らなかった。

 四月一八日午前一一時ごろ、南大東島の三二七度約六〇浬、水深五六〇〇米(北緯二六度四二分}東経一三〇度三八分)で米駆逐艦グループが撃沈した日本潜水艦は戦後の調査で神保正夫大尉の乗艦イ号56潜であることが明らかになった。米海軍駆逐艦作戦史の伝えるその最期は次のとおりとなっている−

 日本潜水艦の来襲を予期していた米海軍は対潜艦艇や航空隊で必殺の態勢を整えていた。ヨークタウン部隊は、ハガード号、モンゼン号、メルツ号などの対潜撃滅部隊をもっていたが、この部隊に向かって大胆不敵にもイ号56漕が肉迫してきた。
 
 この部隊にはほかに潜水艦狩りで勇名をはせたハーマン号、ウルマン号、マッコード号などの駆逐艦もいた。この三隻にメルツ号が加わり、イ号56潜めがけて突進していったが、さらに駆逐艦コレット号と空母バターン号の対港哨戒機二機が加勢した。四月一七日の夜半少し前に、駆逐艦ハーマンがレーダーで潜水艦を捉えたが、やがて他の四隻もまた対港晴戒機二機も同時に目標を捕捉した。
 
 ハーマンは、ソナーで目標をつかむとこれに向首し、爆雷を投下した。ウルマンにも攻撃が命ぜられ、翌朝の一時半から七時四三分まで、ハーマンとマッコードが交互に攻撃、手持爆雷全部をつかいはたし、他の艦が現場にかけつけてくるまでソナー捕捉を続けた。
 
 交代が到着する前に、空母バターンの対潜機が到着して二回攻撃したが、これは無効に終った。交代したメルツとコレットが一〇時三〇分現場に到着、コレットが五回、メルツが一回の爆雷を投下、午後に入ってから行なったコレットの五回目の攻撃でどす黒い重油の渦巻中に破壊された木片、人体の断片やいろいろ潜水艦の残骸が浮び出した》 以上が神保正夫大尉の乗艦(艦長正田啓二少佐)の最期であり、一三時間以上に及び多数の艦艇、航空機の協同攻撃で刀折れ矢尽きたのである。航海長の神保大尉も艦と運命を共にしたのであるが、彼の癖であった小指の関節のタコをこする姿が今でも目に見えるような気がする。
 
 前記の米海軍駆逐艦作戦史の伝えるイ号56潜撃沈の状況は、米海軍の対潜水艦戦闘(ASW)の典型的な戦法を示すものであって、敵は圧倒的に優勢な艦艇・航空機の協同作戦により水艦を一隻また一隻と確実に撃沈していった。当時の我が潜水艦はレーダーとシュノーケル装置を持たず、常に後手に回るはめとなり、苦しい受身の闘いを強いられていたのである。

佐藤俊夫大尉の最期


 神保大尉と同じ11期の普潜学生であった佐藤俊夫大尉の乗艦イ号44潜も四月三日大津島から出撃した。艦長は増沢清司少佐、佐藤大尉は航海長であり、出撃していったこの潜水艦もー回の連絡もないままに消息を絶ってし・まった。

 厳重な対潜警戒下で無線連絡することは死を意味する。作戦海面へ進出するのが精一杯であったろう。戦後判明したところによると同艦は二九日北緯二四度一五分、東経一三一度一六分において、米護衛空母ツラギ号から発進した対港晴戒機(VC−92号に発見されて爆撃撃沈され出挙するイ号44潜水艦ている。航空機による攻撃であったので浮上中奇襲され直撃弾が命中してそのまま沈没していったものと考えられる。
 
 この艦の出撃時の写真が上掲のように残っている。佐藤航海長は艦橋で操艦に当っていたのであるから、司令塔の向うからこちらを見ているようである。
 
 その後も出撃中の各艦に対し配備変更があり、また中型のロ号46、50、109各潜が出撃していったが、五月四日口号50潜が舞鶴に帰投しただけで他の二隻は末帰還となった。このようにして凄惨とも悲壮とも言いようのない潜水艦作戦が血みどろの中に続けられていったのである。