昭和17年七月七日、現地陸海軍間に協定が成立し、「コ」島防衛中の第13聯隊をムンダに移し、その後詰めにブインの第2師団 1200名を緊急増派することになり、2水戦司令官を指揮官とし、警戒艦に神通(細川英一、川原俊行、与田俊郎)、雪風(斎藤高房)、清波、浜波、夕暮、三日月を充て、輸送隊として皐月、水無月、夕凪、松風をもって、7月12〜13日に実施することになった。 7月12日夕刻ショートランド北口を出撃した神通以下の警戒隊は、「コ」島沖において敵巡洋艦4隻その他を発見、これと交戦しその中巡洋艦1隻を轟沈、駆逐艦1隻を大破炎上させたと報ぜられたが、神通がまず被弾被雷した。 神通に乗艦していた川原俊行少尉(通信士)と細川奨一少尉(航海士)は、おそら、直撃弾で戦死した模様と当時甲板士官兼前部応急指揮官であった与田俊郎は回想する。 被害で列外に出た神通を旧戦場に残した僚艦が魚雷の次発装填のため一度北上している間に、敵の集中攻撃を受けた神通は、缶室その他l O数箇所に命中弾を受け、缶室総員戦死、艦は停止したが残余の砲火を敵に指向し独立射撃を続けていた。 2時32分右舷後部機械室に魚雷命中、2番煙突後方で切断沈没し去った。その最期は、モリソン戦史の「落伍艦神通に対する攻撃」に次のとおり詳述されており、悲惨と言うほかない。 〈米艦は南方に弧を画きながら1艦また2艦と神通に砲火を集中した。神通はこれらの砲火と火焔の嵐の真只中で文字どおり溶けて行った〉 〈更に駆逐艦が発射した魚雷1本が神通の後部機械室に命中した)〈次いで2345に2本目の魚雷が明らかに命中した。艦体は、二つに割れ別々に漂流しつつ猛烈に燃えかつ爆発を続け、2348遂に沈没した〉 神通沈没時、後部の応急指揮に従事中の与田俊郎の見た艦内は、各所が火の海で、川原通信士がい電信室、細川航海士のいた艦橋に昇るラッタルも燃えていたという。司令官以下多くの乗員が戦死した。 派遣されたイ186号潜により司令部員及び乗員二百余名が救肋されている。与田は、内火艇で脱出し「コ」島にたどりついた時海岸に残置されていたドラム缶2本の燃料を発見、運命の女神に守られて星を目標に北東方向に航行しチョイセル島に至り、同地の海軍守備隊に救助され生還した。 別勤した輸送隊は、「コ」島西岸アリエール泊地に陸軍部隊と弾薬20トンを無事揚陸し帰途についた。13日早朝、皐月と水無月を反転させて遭難現場を捜索させたが、神通の生存者は発見されなかった。 |