11月2日、3日にわたったブーゲンビル沖夜戦に参加し、ラバウルに帰着した10戦隊旗艦阿賀野(河野千俊、松原、藤井、亀山)以下は南東方面艦隊に編入された。そしてトラックにあった遊撃部隊の第4、7、8各戦隊と2水戦もラバウルに進出を命ぜられた。 同部隊が5日に入港した直後、米機動部隊艦載機が来襲したので直ちに出港湾外にて対空戦を実施し、空襲終了で再入港した。第2波180機が釆たのは午前9時ごろからであり、大型機約50も同時に来襲、高雄、摩耶、愛宕、鈴谷、能代、阿賀野及び駆逐艦藤波がそれぞれ直撃弾、至近弾で損傷し、遠路来着したばかりの遊撃部隊は10戦隊及び2水戦(旗艦能代) を残して、その日のうちに早々とトラックに引揚げていった。 ラバウルを弧立化する作戟に当っていた敵機動部隊を遊撃するため、所在及び派遣の航空部隊が5日から12日にかけて出動した。 11日には空母5隻を基幹とする敵機動部隊の艦載機がラバウルに来襲、涼波が沈没、阿賀野、長波が大破、夕張、浦波、海風が損傷した。 この日の敵機の攻撃は、第1次の艦載機が朝の7時から、第2次は陸上機で合計約200機であった。ラバウル在泊艦は敵機来襲の報で出港、港外において対空戦闘を行なった。筆者も一九年11月、トラックから2度にわたり船団を護衛していったその都度空襲にあったが、来襲方向を見ると空が真っ黒くなるようであったことを記憶している。 阿賀野は、敵小型機の大群約100機をガゼレ岬上空に認め、爆撃回避運動を始めた。7時7分砲撃開始、その5分後敵雷撃機群が雷撃、銃撃を加えて来た。3分後前部に魚雷1本が命中したが不発、続いて後部に1本命中炸裂、瞬時に後部破壊、第4兵員室から後部が海中に吊下、更に舵故障で操艦の自由を失った。後部見張指揮所で指揮中の松原正治少尉の五体があまねく四散した。 8時20分に敵機避退、海中吊下の現状のままでは操艦極めて困難であったので、一時デュークオブヨーク島の北端に避泊して応急修理の上ラバウルに引返した。 この日の対空戦関で松原少尉戦死のほか、河野千俊少尉も負傷した。その詳細は残念ながら明らかでない。 その後艦尾垂下部を山彦丸で切断の後、能代等に護衛されトラックに向った阿賀野は、途中敵潜の雷撃む受け航行不能となり曳航されようやくトラックに入港したが、その最期が19年2月16日、同島北方であった。 |