リンク元に戻る
戦艦陸奥は、昭和18年6月8日(1943)、瀬戸内海西部の柱島艦隊泊地にあって、早朝から艦上訓練を行なっていた。当日、第1艦隊旗艦の長門が修理を終えて呉を出港、陸奥のいる泊地に午後1時到着することになっていたので、陸奥は今まで係留していた旗艦ブイを離れて2番艦ブイに係留替えする準備も併せて行なっていた。 正午近くになって訓練が終り昼食が始まった。小雨が降り霧も濃く近くに扶桑がおったが、艦影は全く見えない。陸奥にはこの時乗員が1,321名、その他艦隊実習中の 予科練の水兵さんが乗っており、6月1日任官したばかりの期友上村徳正、松尾隆司、舛見洋六の各少尉は、飛行学生(三重堀、畠山、小早川、二神、井上至、松山)や他の艦(山下肇、川島伴)、陸戦隊(設楽一郎)に転任する期友を少し前に送り、扶桑から黒田盛雄少尉を迎えた直後であった。 この艦に発令になった和久利芳夫少尉は、アンポの根拠地隊から旅行中で未着任であったため、横1特陸に再発令されサイパンで玉砕する。駆逐艦夕暮の蔭山弘は、電信係りが受信漏れをして転勤発令を知らずに北方作戦に行ってしまい、彼が発令を知り、自分の運の強いのを知ったのは横須賀入港後であった。 初級士官たちが食事をしたり、休憩したり居間として使用するガンルーム(1次室)は後部左舷にあり、彼ら4名は、次に起る自らの運命を決した大爆発も知らず先輩たちと共に昼食をとっており、この日の訓練の成果にっいての話しをしていたであろうか。 大爆発と同時に艦内の電燈は消え、沈没までの時期が極めて静かかったので、艦の下部と爆発個所に近い後部に居った者たちは、脱出する余裕がなく、生存者はいない。期友4名も例外ではなかった。 爆発音は煙突方向から起り、艦は激しく揺れたという。4名がどの様な配置にあったか知る資料は手元にない。 戦後、長く放置され魚の巣となっていた同艦の引揚は、遺族の強い願いで45年6月にその作業が緒につき幾多の困難を排して爆沈して29年ぶりの47年2月20日約800ンの艦首部分が浮上した。今もって爆発の原因はナゾであり、多くの推理小説が出版されているが殉職した者は帰ってこない。 殉職者を追悼する記念碑、陸奥公園、陸奥記念館が近くの屋代島の一番東にある東和町で桂島をほぼ東に望む景勝の地松ヶ鼻に建立され、この町の人の厚い人情に守られているという。
|