7月22日陸軍南海第四守備隊をブーゲンビル島に輸送中の水上機母艦日進がブカ附近で被弾し沈没した。乗艦中の柴正文と小久保喜八郎は共に救出されたが、小久保は重傷を負っていた。その後ムンダに対する連合軍の圧迫は止まることがなく、南東方面艦隊は、31日ニュージョージア方面戦線の縮少を決めた。 元米国大統領故J・F・ケネデーが海軍予備中尉で魚雷艇PT109艇長であった時、「天霧」に衝撃撃沈されたのは8月1日であり、この方面でのことであった。 8月に入ってからムンダ地区の戦況が急速に悪化して、4日には第2回目の戦線整理を行ない、更に5日にはムンダ守備隊を撤し、「コ」島に後退させる準備命令が出された。8日夜同島の守備隊、第六師団の補充月6か中隊を水上部隊で撤収することになり、駆逐艦萩風、江風、園田義書少尉の乗艦嵐(大河信義と戸田専一は潜水学校入校のため6月1日退隊)は、時雨(帖佐裕、金丸光)を警戒艦として6日ラバウルを出撃した。これ等の艦には、当時電探と呼んでいたレーダーは装備されていなくて、村雨(木村候補生乗艦)の場合と同様に苦敗をなめさせられることになる。 7月12日以来、「コ」島南側ブラケット海峡では、米駆逐艦6隻が星間は戦闘機の援護を受け、夜間は魚雷艇の協力を得て、レーダー照準による夜間魚雷攻撃の機会をねらっていた。8月5日、6隻の米駆逐艦がツラギを出港し、その日の午後8時にギゾ海峡に進入しており、一方わが輸送部隊は、この時シ.ヨートランド島の南部のベラ湾口に入ろうとしていた。 視界が悪く、月齢5の月が没した海面は真の闇で、目視だけの我が艦が敵を発見することは極めて困難なのに対し、米側はレーダーを活用逐一わが方の所在行動を知ることができた。2隊に分れた米駆逐隊は、南側から湾内に入り約19000ヤードの距離で萩風以下をレーダ捕 陣捉、9時41分に20本以内の魚雷を発射した。この時になって時雨の金丸光が双眼鏡で、初めて敵を発見して報告したが既に遅く、敵の発射した魚雷が萩風、嵐(園田義書)に命中、続いて江風にも命中した。時雨は、一歩早く敵を発見したので幸い命中を免れており、魚雷を発射、煙幕を展張して反転北上した。 シンプソン隊は、距離6000ヤード以内の江風に5吋砲を集中、スタック号が魚雷4本を発射し、江風に命中、同艦は沈没した。燃料タンクから流れ出た油は燃え、火は渦をなして生存者を取り巻く。ムースブラツガ一隊が、南に一斉回頭を行い逆番号単縦陣となり、3分の後炎上中の多分嵐らしいものに砲撃を加えたが、嵐と萩風の砲貝は方向かまわず打ち出したという。10時頃になって萩風と嵐の射撃が止んだ。「シ」隊は反転し針路を東にとり依然砲撃を続けている。 「ム」隊は、引返して更に北西に適み、ベラ湾内に進入してくるかも知れない日本軍の支援部隊に備えた。時雨が再突撃のため南下したとき、原為一艦長は嵐の弾庫が爆発し溶けた鉄片が流星の雨のように飛び散るのを見、そして頭上に飛行機の爆音を聞いて、嵐が敵機の爆撃を受けつつあると思って再び反転離脱した。28浬離れたフラ湾の米魚雷艇乗員たちも火焔がぼーつと上るのを見て、「コ」火山が爆発したと思ったという。萩風は、明るく照し灯されて漂流することとなり、10時18分ついに爆沈し、4分後「シ」隊は、更に嵐の残骸に対し魚雷6本を打込んだ。かくして嵐の艦影は、米艦艇のレーダースクリーンから消えたとモリソン戦史は伝え、更に漂流者の悲壮な最期を次のとおり記述している。 「ム」隊は、北方にも敵を発見しなかったので引返し、「シ」隊と共に火焔が流れ敗残艦の散乱していた海面を詳しく点検した。海面には人間の頭がポックリポックリ浮いていた。ム中佐よりシ中佐に対し日本兵救助の要望があったので、「シ」隊は、半時間も微速力航行して希望者に救命索を投げようとしたが、只一人もこれに応じることなく英語がしゃべられるのを聞くといつでも誰かが笛を吹き彼等は泳ぎ去った。「シ」隊は、午前零時救助作業を打切り、「ム」隊に続航してベラ湾外に出てスロットを南下した。 この戦闘で米軍の受けた損害はなかったということから、彼我戦力の差の大きなことを感ずる。 杉浦嘉十4駆隊司令、萩風艦長など沈没乗員の一部が約30時間後ベララベラ島に漂着し、10数日後ラバウルに帰り着いた。嵐艦長杉岡中佐は、海岸近くになってあと一歩というとき力尽き水中に没したとい、い、園田義喜ぶ尉は行方不明、乗艦中の陸兵八二〇名も海没した。時雨は脱出し、「同期の桜」の作詞者帖佐裕及び金丸光は無事帰還した。 |