8月15日ベララベラ島に米軍が上陸し、これを漣、浜風、時雨(帖佐、金丸)が遊撃した(この戦闘を第一次ベララベラ沖海戟と呼ぶ)。その後の敵の進攻状況は次のとおりであった。
10月21日に明治神宮外苑競技場で出陣学徒の壮行会が雨中をついて行なわれ、我々と共に戦った第四期予備学生が12月10日入隊している。 ソロモン方面における敵の反攻が益々激しくなり、わが第一線の守備隊は、後退を続けていた。ラバウル基地への反攻を阻止する前哨地区としてブーゲンビル島だけは保有する方針であったが、一〇月下旬以来敵艦艇、航空機の行動が活発となり、27日前述のとおりモノ島がまず占領され、続いて11月1日早朝「ブ」島の西岸タロキナ岬に敵が上陸を開始した。 この上陸軍に対し陸軍930名を同地区に逆上陸させると共に海上においても敵水上部隊を撃破する作戦が計画され、総計15隻からなる連合襲撃部隊が編成された。この襲撃部隊は、2月1日午後三時半ラバウルを出撃して「ブ」島沖に向ったのである。
この戦闘を米側はエンプレス・ウガスタ湾海戦と呼ぶ 。この海戦に参加した期友は前出のとおりで、川内の巽、山崎、所各少尉と初風の山口少尉の計4期友が帰らなかった。
風弱く細雨そぼ降る薄寒い天候であった。一日午後3時30分ラバウル出撃後間もなく敵機に触按攻撃され、軽巡川内まず被弾したが被害は軽微であり、重巡羽黒は命中を免れた。 味方水上機から敵大部隊がモノ島を北上中との報告があったので、随伴していた輸送隊を帰投させた。夜半少し前ごろより、索敵に派出されていた艦載の水上偵察機が「敵巡洋艦1、駆逐艦3、ムツピナ岬の330度50浬」と報告してきたので、襲撃部隊は戦闘接敵運動に移っていった。 2日午前○時45分(日本時間)、川内が110〇度方向に、そして時雨が030度方向に敵をそれぞれ発見報告した。通信士の帖佐少尉が敵発見を全部隊に送った。川内の発見した南方の敵は、味方水偵の投下した照明弾下にあった巡洋艦各4隻よりなる主隊で、時雨が発見したのは北方に廻わった四隻の駆逐隊である。 大森仙太郎司令官は、一8〇度方向に右一斉回頭を命じた。この直後、南東方の敵主力部隊に魚雷を発射して右.回頭中の川内は、舵故障を起して廻りこんで釆た。後続中の時雨はあやうく回避したが、五月雨と白露が余波を受け2分後に衝突し、隊形は大混乱した。衝突した両艦は船体破損、北方に避退し戟場離脱を図った。舵故障中の川内は、敵主力部隊の集中砲火を受け被弾航行不能となり、旧戟場に取り残された。 川内隊の発射した魚雷が駆逐艦フーティ号の後尾に命中し同艦は損傷と記録に残っている。 続いて午前1時ごろ5戦隊旗艦妙高は、隊形が混乱して反航して釆た10戦隊の初風と衝突し、この隊も一時混乱したが、陣形を立て直した妙高、羽黒は敵主隊に村して魚雷攻撃を敢行、15000米まで突入し照明弾砲撃を加えた後西方に避退した。この攻撃で若干の命中弾を与えたと報じている。隊形混乱していた10戦隊も立直して魚雷を発射後主隊に従い戦場を離脱しラバウルに帰った。戦場に残された初風と川内の最期は、極めて惨めであった。どの海戦においてもレーダーを有する圧倒的な敵水上部隊の制海下の戦場で一発でも被弾し、又は衝突で落伍した艦には、激戦下救助の手段さえ残されていなかった。 魚雷発射後舵故障した川内に敵砲火が集中されまず射撃指揮所、次いで第3、4缶呈に被弾して、蒸気管全壊のため機械停止、引き続き後甲板に爆弾命中同所一帯は破損し、舵も全く使えなくなり、艦は航行を停止した。 敵は、漂流を始めた川内に対し両舷から集中砲火を浴びせた。川内は、死傷者が続出し、被害も増大、午前2時総月離艦が命ぜられ、その30分後に沈没した。位置ムツピナ岬の沖約45浬、南緯6度11分、東経154度18分である。 艦長荘司喜一郎大佐、航海長瓜生田和清少佐(兵学校教官・筆者の1号生徒時代52分隊監事)ほか多数が戦死又は行方不明となった。 生還した綿貫(松岡)泰の回想によると、所(機銃群指揮官)と巽(航海士)の両少尉は戦闘配置で戦死し、山崎砲術士はカッターの所まで出ていたことを確認している。前出山本参謀の記録の《砲術士が天皇のお写真を捧持しカッターに乗ろうとした》と一致する。 綿貫は、総員退去の状況を艦内に入って確認した後、甲板に出たところ艦の傾斜が大きくなり、そのまま海に滑り落ちてしまった。彼は夜明け前カッターに肋けられたが、その頃漂流中の乗員は、板切れにつかまっている等計一五〇余名であった。それから飲まず食わずの漂流9日間、敵機に発見攻撃されながら漂流、乗員は次々と力尽き沈んでいきセントジョージ岬にたどりついた時は十数名に過ぎなかった。救助に派遣されたロ号M潜が発見したもう一隻のカッターには、三水戟司令官ほか46名が乗っており、救助された。 この部隊がラバウルを出撃する朝、旗艦が長良から川内に変った。司令官迎えの短艇指揮はサングラス姿の巽少尉で、短艇の後部に普砲学生を卒業し遠路到着、これから着任するという所少尉が乗っていた。この雨期友は長良の副直将校であった川島英男に手を振って元気に去っていき、再び帰らなかったのである。巽少尉は候補生以来この地にあって内地に帰る機会がなかったのに反し、所少尉は内地から着任翌日のでき事であった。運命のいたずらというには余りにも痛ましいことである。
主隊(5戦隊)が照明弾射撃中に、山口静夫乗艦する初風が左前方から突進してくるのを発見した旗艦の妙高は面舵一杯で回避したが及ばず、2日午前1時過ぎ両艦は交角約2〇度で衝突、このため2番艦羽黒(松本崇、徳島)が取舵で回避して主隊隊形は乱れた。 敵に向い進撃する妙高に初風が反航衝突したのは、同所属の第10戦隊が旗艦阿賀野先頭の単縦陣(長波、若月、初風の順)で進撃していたとき、敵の砲撃を受けて避弾運動を行ないながら反転離隔したため隊形が乱れて、殿艦の初風が占位位置を見失ってしまったのである。 衝突後の初風は、妙高の右舷にかわり、真針路300度方向に航行したらしく、その後一時反航で南下して釆た時雨の後に入ったが、また○度方向に去っていったという。当時のわが戦闘詳報には〈初風は衝突後、通信不能となったが、出し得る速力でラバウルに向け航行、0318に敵と砲戟、応戦しながら0339頃沈没したものと推定される。生存者なし》と記述されている。 残敵をもとめて北西方向に進撃した米駆逐艦ウズパーン、ダイソン、スタンレー、クラックストンは、2時50分南方から低速力で北上する目標を捕えた。それが初風であった。同隊は、面舵反転して一斉に砲撃を開始した。同隊が反転中に南方にあった巡洋艦戦隊も初風に対し既に砲撃を開始している。両舷からの集中砲火を受けた初風(艦長芦田部一中佐)は、川内が沈没した約一時間後にその北西方向約2五浬、南緯六度一分、東経153度58分において、その最期を僚艦に見届けられることなく沈んだので、山口静夫少尉の最期はつまびらかでない。衝突時、妙高のトップにいた中島昭夫、服部正範、石丸文義は今もってこの時の凄惨な状況を忘れることができないという。
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