駆逐艦早苗(艦長酒井信一大尉)は、旧式の駆逐艦であったが、二五一五船団を護衛して一一月一五日パラ歳を出港、ボルネ歳島のタラカン経由パリックパパンに向った。セレベス海に入って順調に航行中の船団は、一八日の夜半近くに北緯四度五二分、東経一二二度七分の地点にさしかかった。 この時この海面に配備されていたのは米潜のプルーフイッシュ号であり、船団を発見したこの潜水艦が発射した魚雷が護衛中の早苗に命中し、同艦は午後一一時四〇分轟沈に近い姿で沈没した。水兵長三名が救助されたほか、全月が艦と運命を共にし、先任将校で砲術良であった飯田貞行少尉も行方不明となった。 救助された三名の水兵長が現存するかどうか、今となってはその名前すら知るすべはなく、これ以上の状況を知ることができない。 飯田貞行少尉と香月武彦少尉は、実務練習が同じ長門であり、実習終了後もまた共に阿武隈に勤務、さらに多くの期嘗共に去年六月盲に憲通科砲術学生》として入校した。そして砲術学校卒業後は、艦こそ異なるが、両名とも旧式駆逐艦に配乗となって、同じょうに地味なローカル船団の護衛に当っていたのである。 581名のなかでも、兵学校卒業後この二名のように全く同じょうな配置を進んだ組合わせは珍しいが、更にこの二名が昭一八年の末、相前後して南海に散華したことは、暮しき因縁としか言いようがない。 香月武彦少尉も同じ旧式駆逐艦沼風の先任将校でやはり砲術長であった。この沼風は、主として内地と台湾方面品団護衛に当っており、その状況を普砲学生時代の同期生松本兵吾が後述のとおり回想してくれている。 一二月一五日高雄を出港し門司行の一五隻の船団を護衛していた香月少尉の乗艦した沼風が、三〇分に沖粗末方で《敵潜水艦ヲ発見、の電報を打ったが、その後連絡を絶ち、く行方不明となった。 五隻の船団を護一八日午後九時爆雷攻撃中》と生存者一名もな駆逐艦沼風この最後の電報で報告された敵潜水艦は、戦後の調査で米潜グレーバック号と判明。沼風はこの潜水艦の反撃によって一九日早朝北緯二六度二九分、東経一二八度二六分で撃沈されたのである。
T船団を護衛した涼風は、トラック泊地からブラウン島に向け航行中の一月二五日、北緯八度五一分、東経一五七度一〇分の海域において、米潜スキップジャック号の魚雷攻撃を受け沈没、艦長山下正男少佐以下全月が艦と運命を共にした。 涼風の最期が詳しく判明したのは、戟後のことであり、当時は全くの行方不明とされていた。同艦には市川毅少尉が乗艦し、それまでこの方面においての船団護衛に従事していた。 |