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トラック被空襲 錨地で被爆、戦傷死 
(駆逐艦松風)  亀山二郎 



海軍中尉亀山二郎の戦歴

 長門 阿賀野 松風
 一九年二月一八日戦傷死 ニーオ
 県立横浜第一中学校 
父金作 母ちめ
 第一八分隊の柔道係



 陸上施設への攻撃を知った在泊艦船は、急きょ出港して礁外に出て回避を図り、間に合ったもの、間に合わず礁内で航行回避したもの、錨地で被弾被爆したもの等さまざまであり、どの艦がどの様な行動をとったかは省略するが、前述のとおり多くの艦船が大きな損害を被ったのである。
 
 陸上施設、航空基地の攻撃を終った敵は、攻撃目標を在泊艦船に指向して、多くの荷役商船と若干の艦艇が礁内で被爆して沈没又は損傷した。文月も沈没したが松本、原田は政助され、
橋本一郎乗艦の春雨は難を避けた。
 
 松風は錨地で応戟していたが、通信士の亀山二郎少尉は腰部に爆弾の弾片が命中し、出血多量で病院船天応丸に収容され、傷が重かったのであろう手当のかいなく翌一八日死去した。当時この病院船は、春島と夏島の間の錨地に係留していた。
 
繋留中の潜水艦で応戦中、敵機の機銃掃射で戦死
イ号10潜の
七条一成
 
経歴は潜水艦の部参照」

 この潜水艦錨地にいたイ号42潜と七条一成少尉乗艦のイ号10潜も被害を受けた。イ号10潜の被害は、公刊戟史シリーズの「マリアナ沖海戦」版に《小破》と記録されている。七条少尉、中山栄一中尉〓ハ十九期)他一名戦死、その他負傷三名を出したことまで明らかになったが、その詳細はなかなか得られなかった。その後調査した厚生省資料に《〇五三五敵機の銃撃による》とあり、昭和四九年六月、青木滋が終戦直後九期普潜学生戦没者の最期についてまとめたメモが見つかったというので見せてもらった。
 
 この青木滋メモの七条一成少尉のところに、〈トラックは敵大機動部隊に空襲せられ、その際イ号10潜は潜航が間に合わず、君は前部機銃群指揮官として対空戦闘に奮戦中被弾、戦死せらる。期友中唯一の水上における戦死である》と記されており、このメモにより同少尉の最期が明らかとなった。
 
 この潜水艦は修理の後、米西岸での海上交通路破壊作戦に出撃していったが、途中ミレ島の東方で敵に捕捉され、爆雷攻撃で潜航不能となり、三月二〇日内地に帰投している。そしてその後、河本通明中尉が乗艦し六月サイパン沖で敵を遊撃中に撃沈されてしまうのである。