二月一七日、八日のトラック諸島への敵の来襲以後、第一線となった中部太平洋諸島のどこかに敵の来攻があると判断されるに至った。この地域はそれまではほとんど無防備状態であったので、陸軍部隊の増強が決定してその旨三月二日に発令された。 海軍はこの増強部隊の海上護衛を全力をあげて実施することとなり、敵潜の活動が表と活発化しっっぁったことに革みて、なみなみならぬ決意をもって、護衛艦艇の配備、航空機の増派を行なった その他この「松」輸送作戦に参加した琴友の数は多く、その詳細については割愛するが、横浜からサイパン間に主航路が設定され、これより先の支線航路が配備地域に設けられている。その一つであったサイパンからメレヨン島への山陽丸船団(四月一二日サイパン発)を護衛するため駆逐艦雷(小林洸人)ど秋風(三本欄久)その他が指定された。 雷は、この時艦隊から特派されサイパンに入泊しており、航海長であった小林洸人中尉は、五月一日付入校の第一一期普通科潜水艦学生として発令されていたことが旧海軍の辞令公報綴(防衛研修所戦史室資料)に出ているので、彼としてはメレヨン輸送を最後と考えていたであろうと想像する。 雷はメレヨン島配備の第四四警備隊の隊員を輸送のため、四月一二日サイパンを出撃、この部隊の分隊長として期友松本宏中尉が便乗していた(詳細は陸戦部隊参照)。彼は三月一日付で同隊附兼分隊長に発令され、空母飛鷹を退艦、赴任のため横浜からの内南洋行き定期便をつかまえ、サイパンにあり、雷に便乗していた。 雷はサイパン港を出撃した翌日の一三日になって、直衛機から、北緯一〇度三〇分、東経一四三度五一分、浮上潜水艦発見の報告を受けた雷は船団から分離して単独でこの潜水艦の攻撃に向っていったが、午後五時五分ごろから消息を絶った。その最期の状況は、戦後、米側資料により、その詳細な状況が明らかとなった。雷を撃沈したのは米潜水艦ハーグ一号であり、その位置はグアム島の南方海面で、前述の直衛機が発見報告した位置より南一七浬であった。 なお、この雷は、聯合艦隊所属の駆逐艦であったが、この時期、サイパンを基地としてグアム、パラオ、パリックパパン(ボルネオ)方面への船団護衛に専従していた。 この船団の行先、便乗の松本中尉の赴任先でもあったメレヨン島は、四月一日の初空襲以来、連日の敵機の来襲を受けており、特に初空襲で地上施設に大損害を蒙っている。 |