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補充航空機の輸送 
航空母艦沖鷹 鈴木文雄

海軍中尉 鈴木文雄の戦歴

 山城 沖鷹
 十八年一二月四日 戦死 二一歳と二カ月
 県立津島中学校(愛知
)父(死亡) 母よね
 第三九分隊の軍歌係 倶楽部係



 一八年一一月ごろから、米軍の進攻が激しくなるにつれて、我が海上補給路を速断しようとする米潜水艦の作戦も急に活発となり、一二月に入って改造輸送空母の沖鷹が、トラック基地への補充用航空機を輸送した帰路にその襲撃を受け撃沈された。
 
 沖鷹には甲板士官として鈴木文雄少尉が乗組んでおり、艦長大熊留三郎大佐のもと僚艦瑞鳳(
秋松輝書)、雲鷹(芦田収)、重巡摩耶(堀江一間)、護衛艦曙、朧、漣、浦風と共に二月三〇日トラックを出撃して内地への帰途にあった。

 船団部隊指揮官は瑞鳳艦長であり、この船団部隊の各艦には内地に帰る便乗者が多数乗艦していたが、その中に潜水艦学生に入校するための萩原和雄が摩耶に便乗していたという。
 
 この船団部隊がサイパンー硫黄島−父島−八丈島の列島線東側を北上中の三一日夕刻、雲鷹は米清から雷撃されたが、艦尾にこれをかわした。越えて翌月の二日夕刻までは、南鳥島所在の陸攻三機が対潜直衛に当っていたので、船団部隊は異状なく航行している。ところが、この航空直衛の切れた三日の朝に沖鷹が被雷してしまった。
  
 救助を命ぜられた浦風が荒天を冒して現場に急行し、航行停止していた沖鷹の護衛警戒に当ったが、四日朝に至り、被害が増大した沖鷹は遂に沈没した。浦風が夕刻までに副長以下一三〇名を救助し、途中応援に来着した漣も運用長以下三〇名を収容したが、大熊艦長以下便乗者を含め三五〇名が艦と運命を共にし、甲板士官として総月離艦の準備状況を確認していた鈴木少尉は短艇を見に行ったまま行方不明となったという。

 同艦を撃沈したのは米潜セルフィッシュ号であり、その位置は八丈島東方近海であった。米海軍が採用した複数の潜水艦による艦船攻撃、いわゆる狼群戦法の最初の犠牲であったという。