一二、三日メジュロを出港した米第五八任務部隊は、日本機を避けてブラウン北方から近接し、一七日早朝夏島の東北東九〇浬から飛行機隊を発進させた。 最初の攻撃隊は、戦闘機七二機で礁内及び上空にある日本機の撃滅を任務とし、五隻の空母から日出前の五時一〇分に発艦した。そして、同数の日本戦闘機に激撃され三〇機以上を撃墜した、そして日本の航空兵力を地上及び空中で制圧した後、数次にわたる大攻撃隊をもってトラック島の施設及び艦船を攻撃しほとんど無力化したとモリソン戦史は豪語している。 空母部隊を分派した指揮官スブルーアン海軍中将は、自ら戦艦部隊を率いて別動、空襲によってトラック礁内から外に脱出しようとする日本艦船を捕捉するため環礁外側を一周した。この戦艦部隊に同日早朝出港し内地に帰投中の香取船団が捕捉されたのである。 翌一八日の未明にも、空母四隻から一斉に攻撃隊を発進させた敵は、礁内の飛行場、格納庫、油タンク、弾薬庫等を攻撃した。 この作戦で使用された米軍の延機数は一二五〇機、艦船攻撃に使用した爆弾と魚雷は四〇〇トン、飛行場、陸上施設に投下した爆弾は九〇トンであったという。そして、令により午前一一時に作戦を終了して米艦隊は引き揚げていった。
四二一五船団は、軽巡香取(田中常之)、特設巡洋艦赤城鶴丸、護衛艦の駆逐艦舞風と野分(佐藤清夫)で編成され、船団部隊指揮官が香取艦長小田為清大佐であった。この船団は、予定の一六日出港していれば何ということはなかったが、赤城山九の荷役が遅れたため、出港が一日延びて一七日早朝の出港となった。 香取は元来練習巡洋艦であったが、開戦後はトラックにあって第六艦隊(潜水艦部隊)の旗艦の役目を果していた。その任務が解除され内地に帰ることになったのでぁった。候補生時代配乗になった多くの期友も転勤し、残ったのは田中常之少尉と森山陽一の二名だけとなっていたが、その森山も内地帰還を前にイ号41潜乗組に発令され、一六日退艦したので、この時、乗艦していたのは田中少尉だけであった。 この日は空襲の算がなくなったという情報で直衛の駆逐艦は九三式魚雷を固縛するなど、久しぶりの内地帰還を前にしのんびりムードであった。船団が午前四時三〇分抜錨、北上を始め春島を正横に見る頃、突如敵艦載機が春島の飛行場を攻撃するのを発見、事の重大さを感じて増速、北水道に急いだ。北水道までは約二〇浬で一時間足らずの航程である。春島飛行場の飛行機が次々と地上で炎上するのを見て何とも言えない気持であった。 礁外に出て針路を西にとった頃、敵機の攻撃目標がこの船団に指向されてきて、赤城鶴丸はたちまち被弾沈没、続いて香取が左舷機関室に魚雷一本が命中し航行不能となり、続いて舞風(主計科コレスの大江原利勝君が隊附として乗艦)からも《機関室二直撃弾命中シ艦底通過、浸水、航行不能》との電話連絡があり、船団は野分を除き全滅となった。幸い野分には一発の爆弾も、一本の魚雷も命中しなかった。この艦の通信士であった筆者の戦闘配置は中部の機銃指揮官であり、来襲敵機を撃ちまくり、敵機を撃墜できなかったが自らも難を免れた。一発でも命中弾が出るとそれが致命傷となって戟場に取り残されることになり、その場合の惨さはソロモンでの神通、川内、初風、嵐、ニューギニアの朝潮の例が証明している。 この頃、香取は左舷機械の傾理を終り自力でトラックに回航できる見通しがついたが、不運にも敵戦艦部隊が近接jて来るのを知らなかった。航空攻撃が去ってやっと一安心したとたん、突然附近に大水柱を伴なう弾着を認め、異常事態を知った。東方の水平線を見ると発砲の火焔と煙が認められ、双眼鏡で確かめると明らかに戦艦部隊である。 大口径砲の弾着が左右にしきりとなり、野分は避弾運動を続け最大戦速で離隔し、いつしか戦場を離脱したが、航行不能の香取と舞風に砲撃が集中され、香取、舞風、哨戒艇二四号が圧倒的優勢な敵の攻撃を受けながら最後まで挙艦一致して任務に忠実であったことは、米軍の尊敬と賞讃とを博した》とモリソン戦史に述べられており、同戦史は、更にこれ等の艦の最期について、次のとおり述べている。 スブルーアン提督は、二月一七日にトラック泊地からの脱出艦船を捕捉するために礁外一周の行動をとった。スブルーアン隊が艦の存在を伝えられる海面へ航走し、北水道の真北に来た一二時四七分、ニュージャージーの観測機が艦首二五浬に敵艦の居ることを伝えた。それらは、軽巡香取と駆逐艦二隻であって、脱出中に米軍機に爆撃されたものであった。またトロール船第一五昭南丸が北方からトラックに向け航行中であった。 駆逐艦群は、射撃を開始し、ニュージャージーは16吋砲をもってこれを撃沈した。次いで、スブルーアン提督は、ミネアポリス、ニューオルリアンス(以上重巡)、駆逐艦二隻に対し香取に近接し撃沈を命じた。敵艦は既に空母機に撃破されほとんど停止していた。前記の四艦が隊列の左方に出て進出し、ブラッドホードとバーンズ(いずれも駆逐艦)が1万4千ヤードから先ず軽巡を砲撃し、ミネアポリス、ニューオルリアンスは1万9千ヤードから砲火を開き、1万4千ヤードまで近接した。 香取は、勇敢にも備砲が水上にある間は反撃して至近弾を与えた。また全魚雷を発射した。同艦の後部五・五吋砲は艦が転覆する時にも砲員が配置に就いていた。艦は次いで艦底を露出した。ミネアポリスは、とどめを刺すため最後の斉射を浴せ、香取は午後一時四一分艦尾から沈没した。 他方、戦艦群(アイオア、ニュージャージー)と駆逐艦二隻とは敵駆逐艦舞風を砲撃した。攻撃部隊が三〇ノットで航過した後にも舞風は浮いていたので、巡洋艦部隊がこれを処分した。舞風は、凄惨な砲撃を受けたが、最後まで反撃を続け火焔に包まれて爆発し、艦は両断して午後一時四三分に沈没した。同艦はまた魚雷数本を発射した。上空警戒機の警告と艦の大回避運動とによりわずかに命中を免れた。 三〇分間に及ぶこの不均衡な戦闘中に駆逐艦野分は、西方に脱出を遂げた。戟艦群は、右に回頭し三千四百〜九千ヤードの射程で主砲を発砲し、この大遠距離にもかかわらず挟叉弾を得ている。もっとも命中はしなかった。 回顧するに今回のトラック攻撃は、本戦役中の最も成功した空母作戦の一つであったと、いう『はモリソン戦史』の記述に返す言葉もない。
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