このころ敵の潜水艦は、ロンボック海峡又は太平洋方面から南支那海及びボルネ歳、セレベス附近に侵入し、更にマラッカ海峡中部にまで出没して猛威を振るい、我が海上輸送に大きな脅威を与えた。 我が方の長距離海上護衛は、海上護衛総隊が担当したのであるが、同総隊担当以外のローカル航路については、広大な海域にかかわらず護衛対潜艦艇の隻数も少なく、旧式駆逐艦以下の小艦艇がその大部分で能力も不足していた。これを補うため聯合艦隊主力駆逐艦も逐次護衛任務に転用せられ、重要船団又は新に展開する部隊の輸送等の護衛に配されるようになってきた。 九月に入ると我が対潜能力を見〈びった敵潜水艦は、昼間浮上のまま護衛艦艇に砲戦を挑み、魚雷艇や駆漕艇の追撃に対しても浮上のまま砲戦を継続しっつ遠ぎかる等という事例も発生し、対潜戟力の不足はもはや決定的なものになっていた。 このころ敵の潜水艦は、ロンボック海峡又は太平洋方面から南支那海及びボルネ歳、セレベス附近に侵入し、更にマラッカ海峡中部にまで出没して猛威を振るい、我が海上輸送に大きな脅威を与えた。 我が方の長距離海上護衛は、海上護衛総隊が担当したのであるが、同総隊担当以外のローカル航路については、広大な海域にかかわらず護衛対潜艦艇の隻数も少なく、旧式駆逐艦以下の小艦艇がその大部分で能力も不足していた。これを補うため聯合艦隊主力駆逐艦も逐次護衛任務に転用せられ、重要船団又は新に展開する部隊の輸送等の護衛に配されるようになってきた。 九月に入ると我が対潜能力を見〈びった敵潜水艦は、昼間浮上のまま護衛艦艇に砲戦を挑み、魚雷艇や駆漕艇の追撃に対しても浮上のまま砲戦を継続しっつ遠ぎかる等という事例も発生し、対潜戟力の不足はもはや決定的なものになっていた。
駆逐艦帆風は、艦長染谷英一大尉のもと、七月六日セレベス島の北方、北緯三度二四分、東経一二五度二八分において、米酒パットル号により撃沈され、水雷長長沢輝夫中尉も艦と運命を共にした。生存者がなかった模様で、その詳細は不明である。 この附近海域では、今までに潜水艦によって早苗(飯田貞行戦死)、水無月(藤井宗正戦死)、電、谷風、早波(山垣純一郎・生還)、風害(池田浩・生還)など連続して撃沈されていた。
次期決戦の策源地マニラには連日兵員物資が送られていたが、海没する船舶も激増の一途をたどっている。駆逐艦玉披は、旭洋丸船団を護衛して、七月二日シンガポールを出発しマニラに向っていたが、七日マニラの湾外沖の北緯一三度五五分、東経一一八度三〇分において敵潜を発見し攻撃に向った。攻撃中敵潜の反撃を受け、禁漁雷が命中、一大火柱卜共二其ノ艦影ヲ没シ、何ラノ手掛リナシ》とその最期を僚艦が打電報告した。玉波には航海長として河野千俊中尉が乗艦し、艦長千本木十三四中佐のもとこれまでの作戦で連戦していた。 この玉波を撃沈したのは、米潜ミンゴ号であり、セレベス海で長沢中尉の乗艦帆風が撃沈された次の日である。
この時期、南支那海に配備された米潜水艦の活動は極めて活発で、八月三日高雄を出発してマニラに向っていたタマ二四A船団もリンガエン西方で発見された。この船団を護衛していた駆逐艦朝風(艦長山岩大尉)には川瀬勤中尉が航海長として乗艦しており、二三日の位置リンガエンの西方距岸三〇埋、北緯〓ハ度六分、東経一一九度四四分において、米潜ハワード号と交戦、その反撃を受けて、午後七時五五分被雷沈没した。 アッツ、キスカ方面を失陥後は、北千島が北方の第一線となり、航空基地及び潜水艦基地の維持が重要課題となってきた。冬季は物資の輸送ができないので、流氷の解ける春をまって、船団の往復が活発となった。
このころ駆逐艦薄雲(中村邦治)、汐風(岩越朴雄)等は大湊、小樽を基地にして、北千島への船団護衛及び同方面の対潜掃討に従事していた。 薄雲艦長は若杉次一少佐、中村中尉はその航海長であり、横須賀−大湊間の護衛を終えて、引続き小樽−北千島間の船団護衛に従事した同艦は、七月七日歳ホーツク海の真月中、北緯四七度四一二分、東経一四七度五五分において、米潜スケート号の雷撃を受け、船団の一船の主計長であったコレスの奥野恒夫君の目前で沈没し、中村中尉は行方不明となった。敵潜水艦の行動海面がこのようにこの海域に及ぶようになり、北方守備隊への物資の輸送は漸次困難となり、岩趨朴雄の乗艦も被雷大破している。 |