被雷しながら進撃していった旗艦山城は、敵戦艦部隊の砲撃で多数の命中弾を受けた上に、駆逐艦の第三次攻撃で再度被嘗して、午前四障二九分、巨体は転覆し艦尾から沈没した。 海面に投げ出された生存者は、米軍の救助を拒み白から波間に沈んでいったという。近くの島に泳ぎ着いた一部の者も多くは土民に殺害され、わずかの者が米軍に引渡されたとい、フが敵地の海で海没した艦船来月のほとんどがこのような最期を遂げたといってもよかろう。この艦に乗っていた西村司令官以下司令部貞及び艦長以下乗月の実際の最期である。 艦首を切断されて単独で脱出中であった朝雲は、南下して来た敵艦によって撃沈され、艦長以下わずかの者が半島に漂着したが、この艦の生存者もまた土民に連行されて米軍に引渡されていた。 山城に続いていた最上(福士愛彦)も被弾して艦長以下多くの死傷者を出しながら奮戦脱出に努めていたが、敵の砲火から脱した直後に北上して釆た志摩部隊の旗艦那智(柴正文)と接触して損傷を深め、加えて敵機の空襲を受けて放棄のやむなきに至り、護衛に付けられた志摩部隊の曙により処分された。同艦発令所長の福士愛彦は幸い救助されている。 時雨も被弾し舵故障を起したが、航海長芹野富雄などの処置宜しきを得て脱出に成功した。西村艦隊で生残った只一隻のこの駆逐艦は二七日プルネ1に入港した。 機会があれば、柴正文(那智)、福士愛彦(最上)、、芹野富雄(時雨)、荒井正人(足柄)の生存期友が一堂に会して当時を回想し、この海峡で散った期友や艦隊将兵の霊を慰めて欲しいと思う。 扶桑が被雷して航行不能となり、旧戦場にただ一隻取り残されてったことについては、既に述べたところである。 進撃していった主隊も敵の砲火の前に潰、え、これを追撃するため南下してきた敵の戦艦、巡洋艦部隊に捕捉された扶桑は、その集中砲火を受けて大爆発を起し、船体が二つに分れて浮上のまま炎上を始めた。 空一つに割れ静かに南に漂流し、艦首の部分は午前四時二〇分ごろ、艦尾部分はその一時間後に沈んだ》と米モリソン戦史は語っている。 同艦の艦長阪匡身大佐以下全月がスリガ歳海峡に消え、分隊長であった井上達雄と成瀬英夫の両中尉も再び帰らなかった。この艦には金谷真一(二〇年一月五日特攻で戦死)の実弟茂二少尉(七十三期生)も乗艦しており同じく戦死している。 なお、余談ではあるが、この第三次攻撃に参加した敵の第五六駆逐隊第三小隊の先頭艦は、戦後海上自衛隊に貸与され、護衛艦ありあけ≠ニして就役している。一時期管理者自身もこの艦の艦長を勤めたこともあり、まことに今昔の感に堪えない。 |