第四次の空襲が終った二五日の夕方、被弾落伍していった多摩は、本隊から分離して、単独で異に向っていた。 多摩には通信長として中地勘也中尉がおり、終日の対空戦関にもめげず元気であったらしい。避退北上中の多摩と会合した杉の航海長堀端徹夫が炎甲板上で元気に手を振っていた中地を見た》と回想してくれたことから明らかである。 損傷艦を単独で回航させることは、途中潜水艦の襲撃による被害が更に加わった場合、乗員の救助ができなくなるばかりでなく、艦そのものの消息すら不明となるおそれがあると懸念された。しかし警戒につける駆逐艦の余裕はなく、しかも戦闘は続いているため、万やむを得ず多摩の単独回航はそのままにされた。 小沢長官は、二六日中城湾に先着した横(大山雅清)に対し、奄美大島から呉までの間多摩の警戒に当るよう命じた。しかし多摩からはその後、何の無線連絡もなく、二九日になっても具に入港しなかった。海空にわたる捜索が実施されたが、何らの手掛りもなく遂に艦長山本岩多大佐以下総員戦死と認められていた。 戦後モリソン戦史の伝える多摩の最期は、まことに悲壮なものであった。僚艦からその最後を見とられることな〈消えた艦は他にも多いが、敗戦の戦場における水上艦艇の最期の一つの代表かも知れない。三本煙突のこの巡洋艦は、戦後までその行方が全く不明なままであった。 一〇月二五日午後八時四分、東側の散開線に配備されエンガノ岬沖を行く多摩(鮮明でないが長後の姿である)ていた米潜水艦ジャオラ号は二万七千ヤードに多摩を探知したが、その時、多摩の速力は六節であった。 ジャオラ号の東方を行動していたもう一隻のピンタード号もまた多摩を発見していた。ジャォラは、潜没状態で午後二時一分から四分間に、前後部の発射管から合計七本の魚雷を発射した。僚艦ピンタード艦長の目には霞がかった月光と海面反射の中で三本煙突、五千五百トンの多摩はペンタゴン (米国防稔省の建物を云う)のビルほどにも大きく見えたという。ジャオラの後部発射管からの魚雷三本が命中した多摩は、船体が二つに折れて沈没した。 多摩の最期は以上のとおりであり、その位置は、北緯一二度二三分、東経二面度五〇分、沖縄中城湾まであと三〇〇浬というところまでたどりついていた。通信長兼分隊長の中地中尉は、かくして再び本土の土を踏むことはできなかったのである。 |