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栗田部隊の出撃・一〇月二三日の悲劇
(巡洋艦愛宕) 奥西平治



海軍大尉奥西平治の戦歴

山城 妙高 普砲学生 愛宕
一九年一〇月二三日戦死  二二再一月
 県立神戸第三中学校 
父末男  母キヌ
 第八分隊の伍長

  
 レイテ湾突入を目ぎして、リンガ泊地から北ボルネオのブルネーにに進出していた旗艦愛宕以下の雷部隊は、二二日補給部隙から燃料の補給を雷た後、長官直率の本隊が、分派される西村詳治中将の率いる支隊に先だつこと七時間前の午前八時に抜錨して、壮途に就いた。

 栗田部隊の本隊、支隊にとってレイテへの道は遠くかつ苦難が予想された。その第一の関門は敵の潜水艦の待ち受けであり、第二は敵機動部隊の空襲、そして最後は水上部隊による阻止である。
  
 果せるかな、出港直後から対潜警報が相次ぎ、乗員は早くも精神的にかなり疲労の度を増しつつ、二三日の午前零時過ぎパラワン水に進出した。
 
荒天の海上を進む艦隊に黎明が訪れ始める日出の一時間半前に早朝訓練が始まり、夜戦から昼戦の転換作業が行なわれていた。午前六時半である。突然轟音がとどろき、栗田長官乗艦の旗艦愛宕に四本の魚雷が命中、続いて僚艦高雄(
石原靖夫)にも二本が命中して、主隊は一瞬にして悲劇に見舞われたのである。

 愛宕には、高射長兼分隊長として奥西平治中尉が乗艦レていた。愛宕は、この時潜水艦の攻撃を避けるためのジグザグ運動(之字運動という)中で、基準針路の〇三五度から右に二五度変針した直後であり、艦首付近に第一撃を感じた。
 早朝訓練中であったので、総員が配置に就いていた。艦長は、直ち面舵一杯を命じ、魚雷を受けた舷側回頭して続く魚雷を避けようとしたが、転舵の効果が未だ現れないうちに第二撃を受け、次々と計四本の魚雷を被り、右舷に八度傾斜して艦は停止した。直ちに応急処置が行なたが、傾斜は戻らなかった。
        
 万策尽き(総員離艦)の命令が下され、長官以下司令部員及び艦の乗員が救出を命ぜれた駆逐艦沖波に向って海に飛び込み、同艦に移乗し始めた直後の六時五三分に愛宕はは遂に沈没した。被雷二三分後のことであった
 
 機関長以下の准士官以上と下士官兵三四一が戦死又は行方不明となり、生存者は朝霜(
芦田收)と岸波(谷山正典)に収容された。奥西中尉の最期は、当時の1愛宕戦闘詳報」に<中尉奥西平治ー行方不明・死体収容シ得ズ>と記録されている。<七十三期の分隊士高橋少尉が艦橋の総員退艦命令で、全員左舷に移ったことを分隊長奥西中尉に報告した>と吉田俊雄、半藤蜜著の「全軍突撃、レイテ沖海戦」に述べられているところから、分隊員の脱出を確かめるまで艦にとどまっておった様子で、自らは艦が沈没の際生ずる急激な渦流に巻き込まれてしまっと考えられる。
 
 愛宕を撃沈した米潜は、タータ号あり、僚艦のデース号と協同攻撃して進撃途上のの日本艦隊の旗艦をその初動において撃沈するという、敵側にとっては大殊勲を挙げたのである。この潜水艦ダーダー号はその後高雄を追跡中に艦位を誤り「ボンベイ礁」という浅瀬に座礁し、自らの手で処分放棄している。

 愛宕が沈んだ二十四分後に摩耶(
大場健三)は、テース号の魚雷四本を受けて轟沈したが、大場健三は幸い救助された。東郷良一(入校時七十一期、のち七十二期に編入)、は沈没したこの艦と運命を共にしている。彼は東郷平八郎元帥の莫孫であり、極めて快活な男であったが、聯合艦隊司令部が九月末に 「大淀」 から日吉に将旗を移した際、涙を流して残念がったと大場は回想する。祖父元帥の血を継ぐこの快男児にとっては、それは堪え難い《帝国海軍の後退》と感ぜられたことであろう。

 損傷した高雄は、長波と朝霜に護衛されブルネ一に引き揚げておった。この高雄は、その後シンガポールに回航し、作戦を終えて帰った妙高(中島昭夫)と共にこの地にあって活躍し、終戦後現地で処分され永久に内地に帰ることがなかったのである。

 この混乱で指揮権を一時大和乗艦の字垣纏第一戦隊司令官に移譲していた栗田長官は、大和に移乗した後、隊形を整えたうえ、レイテ湾に向けて進撃を再開した。この悲報が旗艦瑞鶴に乗艦の小沢長官に届いたのはこの日の午後二時であった。

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