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スリガオ海峡・第二次攻撃
(駆逐艦山雲) 渡辺朋彦 と (駆逐艦満潮) 渡辺 譲


海軍大尉渡辺朋彦の戦歴
 
武蔵 二五三空附(在カビュング) 大和 山要
 一九年一〇月二五日戦死 二二歳八月
 道庁立釧路中学校
父和書 母惇
 第四分隊の弓道係 倶楽部係



海軍大尉渡辺 譲の戦歴

 伊勢 鈴谷 卯月 満潮
 一九年一〇月二五日戦死 二二歳九月
 県立御船中学校(熊本) 
父秀夫 母(死亡)
 第四三分隊の短艇係 弥山係


 
 カワード大佐の西側隊による第二次攻撃が始まり、その雷撃で旗艦山城、渡辺譲中尉の乗艦満潮及び渡辺朋彦中尉(兄弟ではない)の山雲の三隻が午前三時一一分に一挙に被雷し、山雲が轟沈、満潮は航行不能となり三〇分後に沈没した。
 
 山城は被雷したが進撃を続け、その後を最上(福士愛彦)、時雨(芹野富雄)、朝雲が続いていったが、殿艦(最後尾艦のことである)の朝雲が被雷、艦首が切断したので戦列を脱し、単独で南下を始めた。

 渡辺朋彦中尉は、第四駆逐隊(司全向橋亀四郎大佐)の司令駆逐艦山雲(艦長小野四郎中佐)の航海長であった。第四駆逐隊は、この時山雲、満潮、朝雲のほかに栗田本隊に分派された野分から成っていた。

 各艦それぞれ新編当時に所属していた駆逐隊が歴戦の未兵力漸減して解隊し、いわゆる謂寄せ集められた隊」であった。

 
 管理者はこのときより一ヶ月前まで野分の航海長であり
、両渡辺中尉などと共忙「あ」号作戦以来苦労して来た仲間であったが、九月一五日附で横鎮附に発令され、この時は田浦の水雷学校で水雷長講習を受けていたことであった。
 
 午前三時二〇分に轟沈した駆逐艦山雲の爆発で付近海面は明るくなったという。
 
 司令駆逐艦山雲と同時に被雷した満潮には渡辺譲中尉が航海長として乗艦していたが、この艦も右舷機室に命中して浸水、航行不能となった。命中個所にいた機関員、缶月及び上甲板の発射管員、機銃月等は全滅であったろうが、この戦闘で人事不省中米軍に救助された艦長の戦後の帰国報告に《二六日五〇〜六〇隻の魚雷艇の北上を認めた。約四〇時間後、意識不明のまま米国魚雷艇に救助された》とあり、これから判断するならば、艦橋勤務であった渡辺譲航海長などは被雷時には負傷はしたかも知れないが即死はしていないと思われる。

 沈没までに三〇分の余裕があったとされているので、生きていたら脱出したかも知れない。そして漂流中に力尽きてしまったのかも知れない。当時の「戦闘詳報」にはこの艦に《生存者なし》となっていたが、実際は同艦艦長が米側に救助されていて、戦後帰国したのである。機会を得たら、快活な元気者の渡辺譲中尉の最期を同艦長にお会いして聞いてみたいと思っている。