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レイテ島増援作戦 米機動部隊ルソン島に来襲 
 駆逐艦秋霜 原田 実


海軍大尉原田 実の戦歴
 
山城 鈴谷 三〇駆隊附 秋霜
 一九年一一月一三日戦死 二三歳六月
 県立第二鹿児島中学校 
父伝助 母ノブ
 第一二分隊の相撲係 柔道係




 一一月三日、マニラ地区に敵の戦爆撃延べ350機が来襲して、内地から輸送任務で進出したばかりの巡洋艦木曽、第三次多号作戦から帰ったばかりの駆逐艦初春(森谷尚幸)、沖波がマニラ港内で被弾着底した。キャビテ軍港では損傷中の秋霜(原由実)と曙に攻撃が向けられた。
 
 海没艦生存者のうち運よく便があったものは、内地に帰投していったが、便を得られない者のうち、その大部分はマニラの陸戟隊に編入され、その多くがマニラ市街戦、コレヒドール島守備戦で散華してしまった。内地に向った者も途中で便船が沈没したものもありすべてが帰国できたのではなかった。
 
 マニラ港に在泊することができなくなった水上部隊で航行可能なものは、ブルネーに避退し、マニラは漸次孤立化の度を増していった。
 
 第四次多号輸送で被弾し、多数の戦死傷者を出した後マニラに帰っていた秋霜は前部に損傷を受けて揚錨機が使えなくなっていたので、キャビテ軍港の桟橋に曙と隣り合せで横付けしていた。この艦も損傷していた。
 
 マニラ上空に飛来した敵機に対しキヤビテ在泊艦は敢然として応戦射撃した。敵は好個の目標として約三〇機が来襲し爆弾を投下しかつ機銑掃射を加えてきた。秋霜が一番砲塔前方と後部甲板に計三発を受け火災が発生した。この時、この艦の艦長はマニラの司令部に出向いており、先任将校の渡田航海長が艦長に代って艦橋の羅針 儀の横で指揮をとり、反対側には通信士が彼を補佐していた。
 
 この時、前部方向から機銃掃射を加えて釆た敵機があり、この通信士は瞬間身をかがめたが、航海長が前に伏せるのがチラリと見えた。敵機が去り身を起した通信士が見たのは即死していた航海長の姿であったという。