サマール島沖会戦に参加して香城した後、北ボルネオのブルネー湾に帰っていた栗田部隊の残存水上部隊は内地に回航する機会を待っていたが、その機会が到来して大和、金剛、長門の三戟艦及び軽巡矢矧を駆逐艦浦風、磯風、浜風、雪風が護衛して一一月一六日夕刻同泊地を出港した。 台湾の基隆附近までは駆逐艦桐と梅が護衛に加わって順調な航海を続け、二〇日から二一日夜半、台湾海峡を北に通り抜けようとしていた。 大和に臼測磐、金剛に池野達郎中尉と式田文雄、長門に柴次郎と新井伝次郎そして矢矧に木金葆夫、磯風に伊藤茂、雪風に田口康生と多くの期友が久しぶりに帰る内地に心をはせていた。 海は静かであったが満天曇で月はなく、この戦艦部隊が敵を発見するよりも早くこの海域で待ち構えていた米潜シーライオン号のレーダースコープに捕捉されてしまった。午前二時五六分にこの潜水艦から魚雷が発射され幾本かが金剛に命中した。同艦はなお走り続けることができたが、金剛の左斜前を直衛していた浦風が巻き添えとなり沈没した。 シーライオン号は、なおも執ように追撃し、五時一二分再び好射点に着き前回より深度を大きく調定した魚雷を発射命中させた。それが金剛に対する致命傷となった。艦底の方にあたって火薬庫で爆発したのか、一〇分後に火災が天に沖し、大音響が暁の空をゆるがせたという。 沈没した金剛には分隊長で発令所長の池野達郎中尉が式田文雄(照射指揮官)とともに乗艦しており、サマール島沖海戦で奮戦したのであるが、池野中尉はこの暗夜の海中に消えた。艦長以下多くの犠牲者の中に砲術長で徳彦殿下の御附武官を勤められた野口豊中佐の名もあった。式田文雄は伊藤 茂の磯風に救助され、生存者二五〇名の中にはいった。 戦争中潜水艦に撃沈された戦艦はこの艦ただ一隻であり、米側の魚雷の威力が格段に進歩したことを示していた。同艦沈没の位置は、北緯二六度九分、東経一二一度二三分である。 |