マニラ地区は、連日の空襲で、水上艦艇はもはや港内に在泊することはできなくなった。第二遊撃部隊の残存艦は、難を避けるため一一月二二日同地を出発し途中北ボルネオのブルネ一に寄った後、二二日リンガ泊地に到着した。各艦隊は数次の戦闘で喪失艦、損傷艦が増えていたので整理統合が行われ、この部隊に第一遊撃部隊の生き残り榛名(平米雄)、羽黒(徳島清雄に代って中島文生)、大淀(浜尾誠)が編入された。 第三一戦隊司令官の江戸兵太郎少将は、五十鈴(秋松輝吉に将旗を掲げて二二日に昭南(シンガポール)に到着し、先着していた駆逐艦霜月に移乗した。 この霜月には航海長として立入仁中尉、水雷長として河崎秀幸中尉の雨期友が乗艦しており、過ぐる海戦には小沢本隊に属して奮戦している。 海戦が終ったのち内地に帰り、受けた損傷を修理したところで、緊急物資輸送任務を帯びた伊勢、日向を護衛して同地に来ていた。 江戸司令官は、二四日午後霜月と桃(福本淳司)を率いて同地を出港しプルネ一に向ったが、翌朝の四時五五分にシンガポールの東北東約二二〇浬を航行中、旗艦の霜月が敵潜ガバアラ号の襲撃を受けて、右舷正横に魚雷二本が命中した。火薬庫に誘爆、火災が発生した同艦は、左舷に傾斜して一〇分後に轟沈同様に沈没した。 生存者は四六名だけで、江戸司令官、艦長畑野健二少佐も両期友も艦と運命を共にした。これは生存者松本三樹男氏の証言による霜月の最期の状況である。同航した挑もその後マニラに進出したが湾外において敵潜のため沈没した。 その後戦艦榛名が触礁して内地に回航、また岸波(谷山正典)がマニラからシンガポールヘの回航中の一二月四日米潜に撃沈された。谷山は幸い救助され、その後便を得て内地に帰った。このようにして、この方面に残った数少い艦艇はなおも奮戦を続けていたのであるが、一隻また一隻と漸減の一路をたどっていった。 |