リンク元に戻る

七次輸送船団の進入
(駆逐艦桑) 小平清人

海軍少佐小平清人の戦歴
 
武蔵 長鯨 桑
一九年一二月三日戦死(公報二日) 二二歳
 県立諏訪中学校(長野) 
父与市 母よしゑ
 第一四分隊の小銃係 軍歌係




 第七次多号船団の第三、四梯団には駆逐艦竹及び桑(小平清人)が護衛に当り、一二月一日の夕刻にマニラを出撃した。途中の上空直衛も強力であったためであろう敵機の攻撃を受けることもなくて、二日夜半少し前に無事オルモック湾に進入した。
 
 
一二月一日、七十一期は海軍大尉に進級した。 兵学校卒業後満二年にしか過ぎないから、平時に比べるとずい分早い昇任で、中尉の期間はわずか八か月半であった。

 期友二神大尉の直衛する船団中の桑に小平清人大尉が航海長として乗艦していたのであるが、そ小平大尉も翌三日の天明戦死しており、両大尉とも戦死に至るまでお互のことを知らなかったのではなかろうかと思われる。

 二神大尉などの上空直衛のもと二日深夜無事オルモックに到着した輸送船三隻の船団はこのときひそかに近接してきた前述の敵駆逐艦と魚雷艇から、夜半を三〇分過ぎたころに攻撃を受けた。護衛中の桑と竹がこれに応戦オルモック湾に次のような夜戦を展開した。
  
 米第六〇駆逐隊の駆逐艦アレン・M・サムナ号、モーアル号及びクーパー号の三隻は、二日一八二九、レイテ湾を出発して日本船団の遊撃に向かった。オルモック湾に差しかかった時、日本軍飛行機が追跡してきた。そして、これ等の駆逐艦は、夜半一時間前から三日の天明に避退するまで、ほとんど絶島なく空中攻撃を受けた。月の光は敵機を見やすくした。サムナ一号は数発の至近弾で軽微な損傷を受けた。
 
 夜半少しすぎて月が沈んだのち、レーダーが二隻の敵艦を発見、直ちに砲戦を関空た。サムナ一号とクーパー号が桑を受けもち、射撃開始後八分で敵艦は炎上し完全に破壊されて沈みつつあった。この両艦は、そこで目標をモーアル号と交戦中の竹に変え`その直後竹の魚雷がクーパー号の中部に命中し、同艦は三〇秒も絶たぬ間に二つに割れた。
   
 桑(艦長山下正倫中佐)の航海長小平清人大尉は艦橋で操艦に当っていたが、命中した敵弾のためかなり負傷し、艦が沈没する直前艦橋から降りるのを当時水兵長であった部下の松島幸一氏が確認し、戦後御遺族にお知らせしている。しかしその後のことは詳細不明である。

 乗艦沈没後夜の海上に約五〇人くらいが投げ出され集まって泳いでいったが、夜の明けると共に敵機の銃撃を避けるため、三三五五に分れてオルモック市街を目ざして泳ぎ続けたらしい。いま一息というところまでは近寄たが、その辺から大多数の者が力尽きて海中に没していったという。