大和(臼渕磐)と長門(柴次郎、新井伝次郎)は、戦闘開始1間で空母2隻撃沈、1隻に大火災を与、え、巡洋艦1隻を撃沈したと報じたが、敵駆逐艦の発射した魚雷を非敵側に回避した大和は、約10分間というものを六本の魚雷と併行に走ったために後落し一戦隊は他隊から取り残された。 金剛(池野達郎、式田文雄)は、大和の後落後単艦で進撃、空母2隻、駆逐撃隻を撃沈したと報じ、僚艦の榛名(平末雄)は1軸故障のため速力が出ず、砲戦の機会を得なかった。 《戦艦巡洋艦戦隊突撃セヨ》の号令で第七戦隊は旗艦熊野(吉田邦雄)を先頭に鈴谷、筑摩(田結保)、利根が先陣を進み、その後を第五戦隊の羽黒(徳島清雄)と鳥海(木下武雄、田辺雅孝)が続いた。 各艦が射撃を始めた直後、敵は煙幕を展張したので、約30秒で射撃は終了している。この戦闘で熊野に敵駆逐隊の発射した魚雷が命中し艦首切断のため落伍し、鈴谷も敵機の至近弾で後落、残った筑摩と利根はなおも追撃し、2隻の落伍艦と離れていった。その後進撃中の筑摩は敵機の爆弾が命中落伍し旧戦場に取り残された。 5戦隊の羽黒と鳥海は、敵空母に命中弾を与え、この敵が大爆発を起すのを認めた。その後鳥海も被弾落伍したので、羽黒は単独で進撃中、やはり単独で追撃中の利根と合同して、両艦とも残弾ゼロとなるまで萄戦し.、戦い終ってこの両艦は帰還した。 落伍して旧戦場に残されたのは鳥海、筑摩、鈴谷、熊野の四隻の重巡である。熊野を除き3隻ともその最期を確認されることなく、25日の夜から26日早朝にかけてその消息を絶ってしまうことになるが、このうち先ず2人の期友が乗艦していた鳥海の状況を述べることにする。
鳥海については目撃者が少なく、その上救助に当った藤波も行方不明となったので、その最期を知ることはできず、それまでの途中経過をたどってみるだけである。この鳥海には分隊長として木下武雄と田辺雅孝の両中尉が普通科砲術学生を終了後いっしょに着任している。田辺中尉は高射長であったが、木下中尉も砲術科分隊長であり砲術関係の配置であったことに誤りはないである。 鳥海は、旗艦羽黒の左70度1500米附近を進んでいた。8時51分羽黒が230度に変針したとき鳥海に1一発の敵弾が命中し、同艦が左に旋回しつつ落伍してゆくのを認めている。撲敵、砲戦中のため落伍艦を救助する暇はなく、また許されるわけもない。それ以来この艦の消息は一時期不明となり、登別部2発爆弾命中、目下修理ニ努メッツァリ〉 との報告を受けた栗田長官は、若干遅れ気味であったが10時6分になって駆逐艦藤波を分派し、警戒に当らせると同時に同じ落伍艦筑摩からの後述のような要求もあって、 《全損傷艦ハ接岸航路ヲサンベルナルジノ海峡ニ向へ》 と指示している。 分派された藤波が間もなく鳥海と合同、低速ではあるが自力航行ができるようになった鳥海を護衛し、サンベルナルジノ海峡に向い避退を始め、26日午前4時0分藤波の発電報告によると炎両艦は25日午後9時40分、北緯11度35分、東経126度5分の地点まで到着したが、鳥海が自力航行不能となり、その運命は絶望と見られるに至ったので、藤波に乗員を収容して、同艦の手で雷撃処分した》 ことが明らかになった。その後藤波からの連絡が絶えてしまった。 藤波の消息が判明したのは後日のことである。情報をもたらしたのは早霜の生存者であり、その状況は「不知火」の項でまとめて述べるが、シブヤン海に入った翌日の二七日、被弾した早霜(セミララ島に欄坐中)を救助に向う途中に敵艦載機の攻撃でバナイ島の北方北緯一二度、東経一二二度三〇分の地点で沈没していた。早霜から内火艇を出して捜索したが生存者は見当らなかったという。 鳥海の乗員も藤波の乗員も共に生存者はなかった。附近の島にたどりついた者もあったであろうが、その最期は前述のとおりであったろう。 木下中尉も田辺中尉(高射長)も鳥海の甲板上で戦死したのか、藤波に救助された後、空襲で被爆戦死したのか又はその後の戦死であるのか全く明らかでない。
筑摩と利根は、敵空母を迫って進撃し、砲撃により命中弾を認め、更に空母ガンビア・ベイらしいものの沈没を認めている。この頃、敵艦載機が筑摩と前出の落伍艦の鳥海に攻撃を集中してきた。 我々のクラスヘッドである田結保中尉は、筑摩の発令所長であり、同艦は両舷から同時に2機編隊の雷撃機の爽撃を受け右舷からの魚雷は避けたが、左舷からの1本が艦尾に命中して、その瞬間大水柱と火焔が立ち上り、後甲板にあった機銃が飛び散るのを僚艦利根から望見されている。水柱が収まった時、後甲板の後半分が大破、艦尾が低下していたという。 速力の落ちた同艦は、なおも追いすがる敵機と交戦していたが、舷故障となったらしく、その旨の信号「D」1旗を掲げて左に旋回を始め落伍してしまった。爾後利根にも他の艦にもその勇姿を見せることはなかった。 落伍していった筑摩から9時20分に炎上、1軸18節、操舵不能》の報告があり1きらに被害が増大したのであろうか、続いて 《我出シ得ル速力九節、何レニ向カフベキャ》 と。何と悲しい電報ではないか。この電報が筑摩からの最後の連絡となったのである。 栗田長官は、この電報を受信し、前述のとおり落伍艦は沿岸航路をとってサンベルナルヂノ海峡に向うよう指示したのである。筑摩の損傷は、鳥海より重いようであ艦橋に命中、火災発生中の筑摩(米軍横影)であったが、何らの警戒措置もできなかった。その後連絡のない同艦の状況を心配した長官が警戒艦を派遣したのは、戦闘を中止して、レイテ湾に進撃を始めてから大分たった後のことである。追撃部隊の中から野分が指定されたのであるが、その野分も分派後遂に1回の連絡もなくく行方不明となった。 野分の最期は戦後になって判明した。同艦は、同夜半サマール島北東の北緯13度0分、東経124度54分で南下中のハルゼー艦隊(T F38)の水上部隊に捕捉されて砲撃撃沈されていたのである。そして一つの疑問とされていたのは、野分が筑摩に合同し、来月を救助したのかどうかということであったが、戦後も昭和48年末になって、ようやく判明している。野分は筑摩に合同し、生存乗員を救助していたのである。それが皮肉にも野分に救助されず1人残されて漂流していた筑摩乗月で、その後米艦に救助された幸運な人があって、この人の言により状況が明らかとなった。
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