五日の《敵部隊ルパング島附近ヲ北上中》との情報により、航行中の桧と樅に対しリンガエン湾に突入しこの敵を攻撃する命令が出されたのであるが、その三〇分前の午後三時四五分、両艦には既に敵の攻撃がかかっていた。樅には水雷長として桑村豊吉大尉、航海長として鈴木正彦大尉の二期友が乗組んでいた。 この駆逐隊は、午後二時三〇分マニラの二九四度一一〇浬の海域で敵哨戒機に発見された。その頃オーデンドル7磨下の前出の第七七任務部隊がルソン島西方を北上中であり、哨戒機の報告を受けた米指揮官はこの日本艦艇に最も近くにいた駆逐艦、スループ艦、フリゲート艦各一隻の計三隻を急派した。 戦闘は三時四〇分ごろから約一時間にわたって行なわれたが、砲戦では彼我ともに致命的な命中弾がなかった。米側のこの三隻は、日本航空機の攻撃を受けている掃海艇部隊を護衛する命令を受け、四時四〇分砲撃を打ち切って引揚げていき、代りに護衛空母から三五機の攻撃機が派出された。桧は直撃弾一、至近弾多数を受けて五時一七分航行不能となり、その視界内で奮戦していた樅は七時一〇分被弾轟沈した。生存者があるという記録は無く、両期友を含む全員が戦死したものと考えられる。 桧は、漂流中に敵潜の雷撃と航空機の夜間爆撃を受けたが被害なく、午後一一時ごろ機関の応急修理が完了し六日マニラにたどりついた。そして七日夜同地を出発してサンジャックに向う途中、敵の後続機動部隊に再び捕捉され撃沈された。丁型駆逐艦のこの二隻は孤軍奮闘後消えていった。この二隻は、時雨(芹野富雄)とともに「桜花」や震洋艇を満載してマニラに向って進出した新造空母雲竜(堀江一間)を護衛してこの他に釆たのであった。 進出途中雲竜が一二月一九日南支那海で敵潜のため撃沈され、時雨もマレー半島付近の海面で撃沈されたが、これらの艦に乗艦の二期友はいずれも無事救出されている。 |