比島方面からの戦略的後退を余儀なくされるに至ったこの時期、在比の搭乗員、整備員の撤収は次期作戟遂行上最緊急事となった。サイパン島、テニアン島においても、ラバウルからの引揚にもこのことに最大の努力が払われたのであるが、今またこの方面において同様の情勢に追い込まれてきた。 一月六日に比島の残留航空関係者を台湾方面に移動することが決り航空機による撤収が九日から始まり、一四日までに司令部員と搭乗員、整傭貝計一二五名を移動させたが、以後の後退は次第に困難となった。なお約千名を輸送する必要があったが、別な手段によるほかなくなった。 ルソン島に敵上陸必至となっていた時、航空部隊は連日の戦闘で航空機も搭乗員も消耗し尽くした結果、部隊を整理統合することとなり、二航艦の大部分を一航艦に編入した。大西長官は、一月一〇日未明クラーク発で台湾に移動し、その月の下旬に輸送機と横空、豊橋空の陸攻を動員して約四百名を空輸したが、在比の関係貝の撤収作戟は二月一〇日で打切られた。宮本平治郎大尉及び高橋進は、敵のリンガエン1陸を聞いた後、航空機で脱出したという。飛行隊とともに比島に進出した攻五の松山愛と攻四〇五の佐藤孝の両大尉は残留組となり、平城弘文は台湾に移動したという。 航空輸送の後を受けて水上部隊が派遣されて、その撤収作業は最重点作戦として実施され、更に水上艦艇がだめなら潜水艦と、打てる手はすべて打たれた。 水上部隊の一番バッターは駆逐艦三隻、汐風及び梅と楓の丁型駆逐艦であった。 楓には松崎弘栄大尉、汐風には橋本一郎が乗艦しており、いずれも砲術長であった。各艦は一月三一日午前九時、高雄岸壁から出撃した。 出港の一時間後、鷲らん鼻附近を南下中に高々度で台湾に向うB24とP38機の大編隊に会った。当然敵機が基地に報告していると判断されたので、敵の来襲を予期して西方に欺まん針路をとった。果せるかな午後三時一〇分ごろ、各艦ほとんど同時にB25、P38約三〇機の超低空爆撃を受けた。当時汐風の当直将校で操艦に当っていた橋本一郎は、直ちに対空戦闘を命じ避弾回避し数機を撃墜したが、左右に至近弾を受けすごい水柱であったと回想する。そして水柱が収まり僚艦を見ると、梅は後部マストから後がない。楓は前部に被弾したらしくもうもうたる黒煙を出していた。 楓も一機を撃墜したが、前部機銃台に直撃弾を受けて士官室で爆発し、戦死約八〇名を出し、砲戦指揮所で指揮中の砲術長松崎弘栄大尉も左足首を砕かれた。しかし、彼は重傷に屈せず血の海と化した指揮所にあり座ったまま指揮を続け更に一機を撃墜した。介抱しょうとする部下を退けて火災の消火に当らせ、自らは毅然として指揮を続けて、敵機が去って後はじめて艦長に届けて艦橋を下り治療所に赴いた。軍医も負傷していたため十分な治療もかなわず、翌朝午前二時三〇分息を引き取ったという。その最後が詳しく知られている。 敵機の去った後、汐風は梅の乗員を救出し同艦を処分し、先行して高雄に単独帰港中の楓を追った。このようにして第一回の救出作戦は中止のやむなきに至り、続いて行なわれた二隻の小艦艇の努力も空しくて潜水艦にバトンタッチされた。 後日松崎大尉の後任として楓に着任した設楽一郎が部下から松崎大尉の最期の模様を詳しく聞き、戦後御遺族に通知している。 ”午後六時頃、従兵谷上等水兵が看護に赴きたるに「谷カ、傷ハナカッタカ、長イコトオ世話ニナッタナア、俺ハ元気デカラ大丈夫ダ、配置ニイケ」と言ひ、常に敵に対する警戒が念頭に在りしものの如く、又自己の重傷を忘れて先づ部下の安否を訊ねる奥床しき大尉の平生が偲ばれたり。そして一一月とは言へ南方洋上の狭陰なる艦内は内地の酷暑と異ならず大尉は頻に喝を訴へたるを皆1サイダーを与へたれば、コップに半分程摂取されたり、午後一〇時頃より意識混濁せるものの如く、頻りに谷上水を呼びたるも既に谷上水を識別すること能はず。かくて、二月一日午前二時三〇分息を引き取った。立派な最期と言うべきである。” 水上艦艇失敗の後を受けて、二月一日以降、ロ号46潜、112潜(大賀秀)、113潜(平山元清)、115潜の四隻が高雄を出撃し比島北部のパタリナオ港に向った。往路は陸兵と物件を輸送し、復路は航空関係貝の収容であったが、成功したのはロ号46潜ただ一隻だけ、他の三隻は出港後消息を絶ってしまい、この作戦もー五日をもって中止された。 |