ルソン島の防衛は、北部の尚武集団、クラーク地区の建武集団、マニラ地区の振武集団に三分されて、山下奉文陸軍大将の指揮下で戦われた。一月九日、リンガエンに米攻略軍を迎え、三一日にスビック湾、翌日ナスブグにも米軍が上陸した。 リンガエンに上陸した米軍は、クラーク方面に進撃して同地区の飛行場群を次々と占領し、西方山地の複かく陣地に後退した防衛部隊を追撃し、二月末までにそのほとんどを破壌した。クラーク地区を制圧した米軍は二月三日マニラ市北部に、ナスブグに上陸した米軍は四日マニラ市南部に達した。かくて、マニラ市街は、南北からの攻撃を受けるに至った。 マニラ市内の防衛戦は、第三一特別根拠地隊司令官の岩渕三次海軍少将の率いるマニラ海軍防衛部隊が陸軍の振武集団の指揮下で直接担当した。岩渕少将の下にあった南比空司令古瀬大佐の東方部隊がマニラ東方山地に、そして特根副長板垣大佐のコレヒドール部隊がマニラ湾口のコレヒドール島に分派された。 マニラ海軍防衛部隊は、海没艦船乗員で増強されていた。彼らは陸戦については全くの素人ながらその意気は盛んであったという。 海没乗員であった夕月の西村幸雄と水谷弘康の両大尉は特別根拠地隊附に発令されて市内防衛の第二大隊の中隊長に、そして熊野の吉田邦雄大尉は横鎮附のままであった関係上東部の附属部隊附に指名きれたと記録が残っている。またコレヒドール部隊の突撃隊に第七震洋隊長山崎健太郎大尉が所属配備された。この四期友は二月中、下旬それぞれの配置で敵を遭え撃った。 二月二日マニラの東方グレース・パークに米軍が出現し始めて、北方、北西方及び南方の三方面からマニラを包囲し、翌三日戦車三〇台と装甲車一〇〇輌を基幹とすの作戦は俘虜収容所のサント・トーマス大学の占拠であった。マニラ市街戦及びその防衛のすべてに触れることはその儀闘が複雑で資料も少なく不可能であるので、ここでは、西村、水谷両期友の戦闘を中心として述べていく。 マニラ市街の防衛兵力は総数二万余、兵力部署は中部地区隊、北部隊(主として陸軍)、南部隊、キャビテ隊と附属部隊に分れ、西村及び水谷両大尉は、海没した夕月、木曽、沖波、若月乗員よりなる中部地区隊に属し、稲政博大尉(元沖波砲術長)指揮の第二大隊の第五中隊長及び第六中隊長であった。西村中隊はローター地区、水谷中隊はリザール競技場地区に配備され、それぞれ陣地を構築した。吉田邦雄大尉は附属部隊であり、遊撃的に作戦したか、又は彼はマラリアを発病していたと聞くので、市街戦には参加せず、東方山中に移動していたのかつまびらかでない。 米軍の北地区進入とともに、市街各所に比島人によるゲリラ隊が蜂起し、電話線が一斉に切断される等全くの混乱状態となり、この市街戦の一つの特徴が内戦場のむごたらしさにあったと言われている原因となった。 二月二二日感状授与範囲に関する聯合艦隊参謀長からの照会電に対し、南西方面艦隊参謀長は二三日次のとおり返電したと記録されている。
豊田聯合艦隊司令長官は、二月二五日附で第五中隊二四八名(中長西村大尉)と第六中隊二八五名(中隊長水谷大尉)に対して”マニラ地区ノ戦闘二於テ善戦敢闘シ、戦車六擱坐、人員四〇〇名殺傷ノ戦果ヲ収メタル武勲”により感状を授与した。マニラ城も陥落した後であった。 防衛研修所戦史室の資料「マニラ生還者一覧表」に、水谷弘康大尉は一八日戦死とあり、西村幸雄大尉については、この資料が古くて戦死日附の箇所が不鮮明である。 市内中央部においては、第二大隊の水谷中隊が守るリサール競技場地区陣地が一三日から一八日にわたる米第一騎兵師団の第五と第六連隊の圧倒的な攻撃を受け戦死五〇名(米資料に明記されている)を出している。水谷中隊長は部下を指揮し必死の抵抗を続けつつ後退していった。 この敵の北方には米第三七師団の第一四八連隊と第一二九連隊があり、連接して正面攻撃を加えてきた。一四日までは南は水谷中隊の守るリザール競技場、東は大東亜通りをそれぞれ確保していたが、一五日にマニラ教会とその東方の西村中隊及び第四中隊の守る陣地ロータリー地区が苦境に陥り、同日午後からは司令部附近にも砲弾飛来しきりとなった。 もはや命運尽き最後と決心した岩渕司令官は、通信途絶を考慮してこの日の午後九時一〇分に情況を報告した訣別の電報を発した。 一八日、岩渕司令官もフィリピン大学にあった第二大隊長も旧城内に後退。この戦闘で前出の感状にあるとおりの戦果を挙げた水谷中隊は全滅するに至り、水谷大尉も戦死したものと思われる。
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