三月二六日夜半から二七日早朝にかけて、ミンドロ島在泊の敵船団に対し我が水上部隊による組織的殴り込み挺身攻撃が敢行され、この挺身隊は帰途陸上を砲撃した。参加艦艇は、足柄(大山雅清)、大淀(浜尾誠)、霞(伊吹寿雄)、清霜、朝霜(芦田収)、榧 (与田俊郎)、杉(堀端徹夫、松本兵吾)、樫(池田浩)であり、清霜がB25の爆撃で沈没した。特に見るべき戦果はなかったが、わが水上部隊の不屈の意気を示したと言えよう。六三四空の宮本平治郎大尉が瑞雲隊指揮官でこの作戦を支援している。 一九年もいよいよ押し迫った一二月三〇日、高雄を出港して比島に向っていた船団を護衛中の駆逐艦呉竹がバンー海峡中央部の島附近を航行中に米潜ラザーバックに雷撃され沈没した。 この艦には先任将校として若命宗雄大尉が乗艦していたが乗員の多くは行方不明となり、彼も救助されなかった。呉竹遭難の電報で高雄にあった春風(上柳勇)ほか三隻が急きょ駆けつけて二日間にわたり沈没現場附近を行動し、生存者の救助と対潜制圧に当った。その掃討中春雨が左入〇度からの魚雷攻撃を受け、後部マスト以後をもぎ取られ航行不能となっている。 若命大尉は、被雷時戦死したのか、それともいったん乗員と共に海上に逃れ泳いでいる中に力尽きてしまったのか、すべて不明であるが、水泳特級のベテランであったから前者であったろうと思う。 |