山崎健太郎大尉の第七震洋隊は、佐世保で編成されて隊員の出身地呉に移って出撃準備に当った後、商船に搭載されて、僚隊二か隊といっしょに一〇月一日無傷でマニラ港に到着した。当時は、進出中に船団が潜水艦に攻撃され海没する特攻艇隊も多かったという。 第六震洋隊員であった山地魁氏(当時中尉、予備学生出身)の回想によると山崎隊もボルネオ配備の予定であったが、相田隊より遅れてマニラに到着したため、戦雲急を告げるときであり、急にコレヒドール島配置に更になったという。コレヒドール島に配置された震洋隊は七か隊、魚雷艇隊は三か隊であり、マニラ防衛の一翼を担ったの一である。さ月一八日これらの特攻艇を合ゎせ「コレヒドール突撃隊」が編成され、東部台地ナネー砲台下の隋道に艇を入れ嶽郵していた。 この島はかつてマッカーサーがたてこもったところであり、彼はこの地から濠州に脱出したことであった。シブヤン海で沈没した武蔵乗員の生存者半数もここに配備されており、二月一五日に始まった敵の艦砲射撃により相当の被害を受け、特攻隊もそれ前に既に震洋艇二四隻、人員一〇〇名を爆発事故で喪失するということがあった。 二五日対岸のバタン半島マリベレスに上陸した敵輸送船団に対し山崎隊五〇隻の出動命令が出た。 マリベレス砲台は、敵の表を撃退したものの砲台が破壊され、守備陳の運命は風前の灯となり、コレヒドールに救援を求めてきたのである。出撃命令を受けた山崎健太郎大尉は、一五日午後七時、五〇隻の艇を静かにコレヒドール島の海に浮かべ、白鉢巻に飛行服、腰に護国刀をたばさみ決死の意気をみなぎらせて、夕闇の中に消えていった。 それから二〇分後、バターン半島の島影を進む四か艇隊は、山崎隊長艇を先頭としてマリベレス沖に迫ってい〈。敵は先の陸軍水上特艇隊(震洋艇隊の陸軍名称)の奇襲にこりており、今度は準備を整え山崎隊を待受けていた。 隊長の発する突撃の合図が光ったと思うと、敵は探照灯を点じ、たちまち猛射を浴びせて来る。残念射つべき銃もなく、ただ白波を切って二五節の速力で真一文字に突き進む震洋艇は、雨注する敵の銃砲撃のためまず先陣をきる隊長艇が大爆発を起し、火の玉となって自爆した。このようにして後に続く全艇が潰え去ったのである。 米資料によると、この夜の攻撃でLSTを警戒中の支援船三重が撃沈されたとしている。 |