瀬戸内海西部で就役訓練中の新型丁字型駆逐艦「梨」(駆逐艦長高田敏夫少佐)は平群島の八島畑尻鼻沖に停泊中の7月28日、来襲した敵艦載機延べ90数機と交戦した。
正午ごろ、敵機の発射したロケット弾が旗甲板付近に命中し、そこで指揮中であった防御指揮官兼水雷長の原田盛之大尉の五体は四散したと左近充尚敏氏(航海長・72期)が回想している。その直後、同艦は沈没し、多数の乗員が死傷した。
この駆逐艦は旧海軍でのご奉公は短かった、戦後引き揚げられて、修理し海上自衛隊の護衛艦「わかば」として長い間ご奉公した。
原田大尉は、「梨」に着任する以前は、レイテ沖海戦後のオルモック海岸への陸軍部隊増援作戦で「島風」の航海長として作戦中、敵艦の魚雷攻撃で艦が沈没したが、幸い帰還した。その時の砲術長が前出左近充航海長のお兄さんで、戦死された。
戦争末期になると、連合艦隊は壊滅し、僅かの駆逐艦よりなる残存艦隊の戦隊旗艦花月(寺部甲子男)、第43駆逐隊の桐(佐藤清夫)、蔦は柳井の南方海域の水道の相ノ浦海岸に錨泊、前後を固定して、山から木の葉を切って船体を偽装し、来襲の敵艦載機から所在を隠ぺいしていた。
当日の(28日)は来襲期の敵機が殊のほか多く、相ノ浦錨地から平群島方面でダイブする敵機を認めていた。それが「梨」であったことは知る由もなかった。
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