『スマートで目先がきいて几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り』とは海軍に籍をおいた者は誰でも教えられ、自分も後輩に伝えた、今日でも通用する格言である。「負けじ魂」は船乗りだけでなく、航空関係者、他の配置にいた者総てに共通するものであった。さて、「スマート」とは「格好がいい」という意味もあるが、海軍では違った。潜水艦乗りは「ドン亀」といわれているし、大型艦乗りも「スマート」とはほど遠い。軽快な駆逐艦を思うままに扱い、東奔西走するには「スマート」で、「目先が利いて几帳面」でなければ出来なかった。だからこの言葉を駆逐艦乗りにピッタリであると言いたい。 弱冠二十歳前後の若者達が激動の太平洋戦争の海上作戦で広大な海域を大型艦に比べると生活環境の悪い駆逐艦に配乗して、東奔西走、常に敵潜水艦、航空機と生死をかけ、不測の海原と対決したコレス期友達の奮戦そして敗戦した偽らざる記録である。 六十年余り過ぎた今日、太平洋の地図を拡げると、多くの戦友を呑んだ、自身もその一歩手前にあって明暗、生死をわけた極限の想い出がめぐる海(回帰の海)には、今日、その跡形は何も残っていないが、体験者のみの心に残る兵どもの夢の跡がある。
遥かなる時空を超えた、遥かなる潮路の彼方で起こった悲喜こもごもの想い出、人生最大の危機、戦没・海没戦友への追悼を会員が関係出版物、雑誌などに発表したものと編集子の要望により往時を回顧し新たに書き留めてくれたもの27編を集大成したものである。多くの若者たちに当時の我々の心意気を知って欲しい。
我々会員のうち13名が合計17回(松本兵吾は3回、芹野富雄と与田俊郎が夫々2回)、この様な人生極限の経験を持つ。沈没経験の無い会員も総員が僚艦のこの様な光景を目の前にして救助に当り、その悲惨さに涙した。 60年後の今日も昨日のことのように、遥かなる回帰の海での出来事が戦没戦友の面影と重なり去来する。 駆逐艦で戦死した期友は総員32名の多きに達した。
畏友佐藤清夫君は海戦史研究の該博な知識と現地調査等の成果を踏まえ『同期の桜海兵71期』を始め数々の労作を我々に提供してくれた。 同期も全員傘寿を越え、戦争の記憶も薄くなりつつある時、海軍、海自の「車引き」として青壮年期の大部分をすごした彼は、同期駆逐艦乗りの協力を得て、『遥かなる回帰の海』を編纂、出版してくれた。改めて同君の労を多としたい。駆逐艦乗りになり南洋航路の護衛を卒業して千島海域に転じ、最初の護衛を終わって入港したとき、「白雲」沈没の電報が入った。南方の修羅場をくぐって来られた司令が「駆逐艦が潜水艦にやられた」とつぶやかれたのを今でも覚えている。当時の駆逐艦乗りには、潜水艦は駆逐艦にあったら逃げるという認識があったことを窺わせる1語であった。一方、デッキの出撃祝いでは「船に乗るなら駆逐艦にお乗り、魚雷抱いて殴り込み」と歌われていた。 士官も兵員も駆逐艦の本務は魚雷戦で、対潜水艦戦など副業と考えていたように思われる。水雷長を拝命した小生にしても、真っ先にしたことは水雷学校に行って魚雷戦のマニュアルを貰うことであり、朝夕の訓練では商船や僚艦を目標にして的針、的速や方位角の目測訓練に専念し、ひたすら「射角」決定の技を磨いたのであった。本書の読者は日本の駆逐艦はこんなに弱かったのかと思われるかも知れない。我々としては認めたくないが、事実は各期友が書いているとおりである。 魚雷戦の要決は「肉を切らせて骨を断つ」肉薄攻撃であるが、九三魚雷の開発はアウトレンジ戦法に名を借りて遠距離魚雷戦に終始し、長蛇を逸することが多かった。対潜水艦戦では優速を金科玉条とし、水中探信儀(以下ソナーという)は性能も今1であったが、発振音により敵に探知されるとして護衛中使用せず、専ら見張りと聴音に依存していた。したがって、敵潜水艦を探知して攻撃するという積極戦法はとれず。雷跡発見か被雷が封潜水艦戦の立ち上がりとなることか多かった。結果は咄嗟爆雷戦、猪突猛進、盲目投射で、良くて効果不明、悪ければ反撃されて沈没であった。ご承知のとおり砲術は必中戦法であるが、対潜水艦戦では敵の位置が分からないため公算射法とならざるを得なかった。 開戦時船団護衛が旧式駆逐艦や小型・低速艦艇の任務とされたことはやむを得なかったとしても、そのような艦隊決戦中心戦略の下で、対潜水艦戦戦術や理論の開発も十分ではなかった。対潜学校において最新の対潜戦術をマスターし、対潜戦のエースと期待されて海防艦「日振」艦長となった64期の石川浩少佐が、就任2ヵ月後に返り討ちにあった悲劇は米潜水艦と我が対潜艦艇の力の差を見せつけるものであった。日本は技術力、工業力、戦術の全ての分野において米国の敵ではなかった。その結果、連合国潜水艦に152隻486万総トンの商船を撃沈され、太平洋海域で沈没した米潜水艦50隻のうち水上艦艇による可能性のあるものは僅かに32隻に過ぎず、一方我が駆逐艦の被害は47隻であった。 海上自衛隊に入隊して再び「車曳き」の道を歩き出した小生の目から鱗が落ちたのは、米海軍の封潜戦術を教わったときだった。潜望鏡をも探知し、目標の態勢まで判定するレーダーやソナーの優秀性もさることながら、前投兵器の活用、連合攻撃戦術、捜索理論、船団護衛理論等水雷長でありながら知らないことばかりであった。 車曳きの1員として戦時中の不勉強を深く反省し、幾十万海没戦士のご冥福を切にお折り申し上げます。
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