「砲術(てっぽう)にあらずんば人にあらず」の伝統の最後の後継者として彼らがあった。この時の茂木明治教官は我々の一号生徒で野分砲術長から横須賀砲術学校教官に発令されていたのであった。その後、海軍の砲戦術指導的配置で活躍し、これが縁となり戦後も伝統の「海軍砲術会」の灯火を受け継いでいた。 高松宮様の薨去と共に会長であった新見校長閣下の白寿の記念宴を契機に会員の老年化で後継者難の故をもって戦後ほぼ半世紀で解散の幕引を演出した。それが、68期・茂木明治氏であったという。
余りにも歴史的な海軍伝統の一つの灯りが消え去ることに寂寥を感じる反面、潔い決断である。平成元年4月7日の午後一時、308名の老いたる壮漢とその妻たちが、粛々として東京高輪のホテル・パシフィックに集合した。彼等は最後の海軍砲術会を行なって、伝統ある帝国海軍の砲術にピリオツドを打とうとしていたのである。 臨席の高松宮喜久子妃殿下を囲んで滅亡を遂げた砲術専攻者たち、それは往時帝国海軍のバック・ボーンを以て自認し、太平洋ところ狭しとばかりに馳駆した壮漢たちであったが今はおのおの一介の老翁となって三々伍々片隅に帰って行く。 彼等の脳裏には、ひるがえる軍艦旗・旋回する砲塔・射撃開始を告げるラッパの音・戦艦の艦底に密かに設置された精密をきわめた計算装置・轟然たる46糎砲の斉射音などが、恰も昨日の出来事のように不思議な鮮明さとをもって内蔵されているが、それがふたたび他人に語られる機会はもうないだろう。幕は降ろされた。 壮麗な演出を標榜して一堂に会する機会は、永遠に失われた。私はホテルの入口に立って、散ってゆく彼等の後ろ姿を見送りながら無限の感慨にひたっていた。滅亡とはなんと美しか。
旧海軍には多くの戦友会があり、いずれ解散となる運命にあるが、このような演出ができるであろうか。善きにつけ悪しきにつけ、さすが砲術会であったので参考までに掲載した。 上に戻る |