海軍兵学校第71期のホームページへようこそ同期の桜海兵(海軍兵学校)七十一期3 ヶ年の短期間であったが、帝国海軍70年の伝統と文化を継承した最後のクラス |
はじめに 戦艦大和・武蔵、空母翔鶴・瑞鶴等建造、航空隊倍増計画と71期 <対米を意識した第3次軍備計画での兵学校生徒増員で採用された初めての600名クラス> |
・1939(S14)年12月1日 入校(601名) |
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真継不二夫撮影の広報写真集『海軍兵学校』の顔
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卒業記念写真(第一生徒館前にて、学校職員と卒業生581名) |
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この計画により建造されたのは戦艦「大和」「武蔵」・空母「翔鶴」「瑞鶴」等。ほかに駆逐艦としては陽炎型の15隻、レイテ沖海戦で行方不明になった「野分」(管理人はその1ヶ月前に転勤となり退艦していた)はその最終艦であった。この「野分」<野分とは台風の古い呼び名>は、舞鶴海軍工廠で建造され、 米国海軍は、第1次(昭和9年)ビンソン案に続いて第2次案(昭和12年)を公表して建艦を推進。この米国計画に対抗して、日本海軍は後述する第4次軍備計画(マル4計画)を14年4月1日に立案することになる。
この事を辺見じゅん氏は自著「男たちの大和」で触れているが、その原因は不明となっている。実情はこの赤痢発生にあった。 戦後、良き大和ホテル時代の初級士官の集い「大和ガンルーム会」が結成されたが、沈没当時の乗員で結成された「大和会」とは一線を画し接触はない。初代会長に当時大和の士官室士官でガンルーム(第2次士官室)張り出しケップカンであった元海上幕僚長内田一臣さん、初代甲板士官の今井賢二元海将、井上竜昇元海将などの大物先輩があった。
就役訓練の終了した「武蔵」は、聯合艦隊の旗艦となるため、翌18年2月呉から出撃し、空母翔鶴、護衛の駆逐艦等に護衛されトラック基地に進出する。実務実習を終了し、天皇に拝謁した候補生にうちトラック、ラバウル方面に展開中の艦艇に配乗することになった百数十名の候補生がこれらの艦船に便乗し、初陣する。 昭和18年2月11日(当時の紀元節の良き日)、トラック基地では連合艦隊の旗艦が「大和」から「武蔵に」変わった。管理人が配乗したばかりの「大和」では当日天皇陛下のお写真に遥拝後、松田千秋大和艦長主催の送別会で我々乗り組み候補生一同は山本五十六長官の身近に集められ、「私も日露戦争で候補生のとき戦争に参加、負傷した。今や戦局は重大な時期にある、若い候補生は一生懸命頑張ってくれ」とのお言葉をいただいた。 大将とマウス対マウスというまったくの至近の間に接したことは管理人達の最大の想い出である。その長官は、その3ヵ月後に前線視察中に機上戦死され、この訃報は密かに、いち早く同乗の久邇宮徳彦候補生からお聞きし暗澹たる思いに浸った。その後しばらくたて旗艦武蔵のマストに半旗の軍艦旗が掲揚されたことを記憶している。
航空軍備についていうならば、航空母艦に搭乗の兵力は艦艇軍備と一体となってその中に含まれるが、基地航空兵力は別に計画されていた。この計画による増加される空母配乗の航空隊と基地航空隊は75個隊で、既存計画と合わせると128隊になる。すなわち、基地航空兵力は一挙に2倍以上になるわけであった。
その年の海軍将校生徒の採用要領は、海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校の海軍3校毎に14年4月15日付の海軍省告示として官報に公告され、その選抜範囲は大正9年12月2日から13年12月1日までに出生した日本男子であった。例年ならば採用予定人数が公表されるのであるが、このときには「前年度より増加する見込み」とだけされ、具体的な人数は示されなかった。 これには重大な意味を含んでいた。すなわち、日本海軍は、伝統的に兵学校卒業者は特別の事情がないかぎり、大佐までは進級させる基本方針をもっていたので、採用人数は必然的に海軍が企図しつゝある軍備の規模を示す結果となるのであった。 この計画で建造される艦艇、航空隊75隊の基幹要員として300名の海軍兵学校将校生徒の増員も計画されて、その年の12月1日に71期生601名が江田島に入校。勿論その員数は公表されなかった。
これらの計画により完成する海上、海中、空中の海軍戦力を背負うべく期待された兵71期、機52期、経32期の各科生徒が一人前の海軍士官となる頃に、この計画も完成する予定であった。 海軍3校の各生徒は同じ年に入校した者を夫々が同期生(クラス)と呼び、他校のそれをコレス(相当期)と呼んだ。「貴様と俺は同期の桜」であり現在にいたっている。兵学校は広島県呉港外の江田島、機関学校は京都府の舞鶴、経理学校は東京の築地にあった。その間の各校の交流は無かったが有無相通ずるものがあった。 その昔、海軍3校の生徒修業期間は4ヵ年間であった。対米関係の悪化は早く、66期生から課程短縮が始まり我々71期生は4学年制(第1~4学年)であったが、その修業期間は3ヵ年間に短縮された。このようにわれわれの海軍生活は、これらの計画に始まり、所期の軍備拡張5ヵ年計画の完成を待たず、どの様な状況にあったかはここで述べないが、日本海軍は実質的に未完成の計画で米英その他の連合国との戦を1年早く始めてしまった。 即ち71期生達の卒業1ヵ年前の昭和16年12月8日であった。 従って、江田島などでの我々の教育も3ヵ年に短縮されたので一人前の将校生徒には程遠いままで卒業し、海軍省の養成計画に副わない未熟な初級士官として、特に航空畑に進んだ約300名の期友の内、実務実習終了後直ぐに霞ヶ浦に直行した飛行39期の連中は習練期間1ヵ年間、少尉に任官で入隊した飛行40期の連中は更に期間的には1ヵ年半のタイムラグがあり、前者はマリアナ沖海戦に、後者はフィリピン沖海戦に初陣、ともに飛行時間少なくて飛行技術的にも、部下指導にも全くの未完成のまま、さらに戦陣に臨む心構えも十分でく、命令のまま洗面用具と下着を持って臨んだと聞く。そして夫々の初陣で不本意にも緒戦から多くの犠牲を出した。その詳細はこのホームページの主題である。 もし、開戦が1ヵ年おくれて、我々が、特に航空搭乗員が一人前になっていたらどうなっていたろうか。やはり変わらなかったであろうと管理人は思うが、各人は技量的にも一段と進歩し、部下統御も、武人としての精神力も備わり、自分が納得して戦場に臨みえたと思うし、満足した心境で戦場に散ることを恐れなかったであろう。これらのことはあの世で彼らとあった時のお楽しみである。 |