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第1 江田島時代の余話

1、海軍将校生徒の採用試験
 
旧海軍兵学校の生徒数は満州事変以後逐年増加していたが、我々の1号生徒68期が300名、69期が350名、70期が450名となり、71期に至って一気に600名となった。
 
 海軍の第3次軍備拡張計画(所謂B計画)において戦艦大和型4隻等の建造、航空隊の倍増とともに、兵学校生徒600名の採用が重大なものであった。その計画に沿って我々71期生が採用されたのであった。然し、我々はそのような計画は知る由もなかったが、この計画と次のC計画とが対米開戦への最大の布石であったことは既に述べた。
 
 当時の兵学校採用方針は、新見政一校長(51期)の「いかにも軍人らしい、というような者は採るな」に則って選考を進め「よき家庭で両親が丹精込めて育て上げた生徒」が試験官の尺度だったという。全国の県庁所在地で行われた身体検査と所謂「振るい落し式」学科試験での16倍という激しいこの競争試験を突破して合格し、天下の秀才のつもりで江田島にやってきたわれわれを待っていたのは「600名クラス」という有難くないレッテルであった。

  海兵71期の入校した時期は、ヨーロッパで第二次大戦が始まった直後で、昭和14年12月1日に601名が海軍兵学校生徒を命ぜられた。京都の久邇宮徳彦王(
現梨本徳彦氏)もその一人で、久しぶりの宮さまクラスであった。

2、優等生卒業者

田結保、野村実、加藤正一、二階堂春水、山本達雄、
曽山威人、土井寛、安達裕、常広栄一、奥西平治

3、生徒の嗜みと躾けが徹底された (構内での酒保物品購入はセルフサービス)
 
入校してすぐに分隊の伍長(一号の先任者)が構内の施設を案内してくれた。生徒館の正面玄関の屋上に文法具を販売するところがあった。ここでは各自が購入した物品は伝票に数量を記入して伝票箱に入れ、所謂付けとして月末に精算されると教えられた。

  71期が入校し、2号生徒の時期は構内での大福等、倶楽部でのすき焼きは自由に食べられた。月曜から土曜日の毎晩夕食後から自習時間までの1時間ほどの休憩時間と日曜日の外出許可から帰校点検までの自由時間に酒保(日常雑貨類および菓子、軽飲料水等の販売されているにおいて自由に飲食し購買することが許されていた。
 
 日常雑貨類は上記の生徒館の屋上の販売所で、菓子、飲料水等は構内の八方園神社の裏側にある酒保養行館であった。みんなセルフサービスで好きなものを好きなだけ購入し、飲食できた。「数量に自信のないときは多めに記入せよ」と伍長からいわれ、生徒の嗜みと躾けが徹底されていた。

  初めての酒保養行舘行きで恐ろしい嵐が待っているとも知らず夕食を早々に終え駆け足で急ぐ4号、そこに1号生徒が八方苑神社ノ坂道で「待て」をかける。後は鉄拳の乱打であった。


4、クラスとは  (第59期生の卒業に対する生徒隊監事伊藤整一中佐の訓示)
 
 この伊藤中佐は後の大和海上特攻艦隊を指揮した伊藤整一中将で、この訓示は59期の先輩が後輩に語り伝えたいと、『海軍兵学校出身者名簿』の別冊に掲載して「永遠の真理として残るべきものと考え、その一部を紹介し次代に伝えたい」と述べている。

 わが国においては、卒業はその字義の示す如く、業を卒ゆること、即ち成就、成功あるいは安堵を解する風あり。
 これに反し欧米においてはCOMMENCEMENT即ち開始を意味す。 この観念の相違は卒業後における努力において非常なる相違を生ず。

 余は、諸子の卒業は、海上生活のCOM―MENCEMENTなることを高調し、勇ましい門出を祝福せんとす。諸子に期待する所は今後の奉公にあり(中略)。

  同期生は団結し切磋琢磨せざるべからず。然れども級友は飽くまでも級会員相互即ち内部に向かった働かざるべからず。若し級会が外部に向かって働きかくることありとせば、既に級会の分を超えたるものなり。

 海軍は所轄における上下の団結により成立す。級会は各自が公務に励むに当たり内助の作用をなすのみ.