1、聨合艦隊の部隊再編成・第2水雷戦隊の解隊 (昭和20年4月20日付) |
@ 「大和」等の沈没で、第2艦隊と第2水雷戦隊の両隊を4月20日付で解隊した。日本海軍のエリート第2水雷戦隊が誕生したのは大正3年(1914)のことであったから31年目に水雷戦隊生き残りの3つの駆逐隊は組み合わせを変えたうえで第31戦隊に移された。
この31戦隊は、対潜水艦の専門戦隊として第5艦隊に肺臓されていたが、2月5日の同艦隊の解隊にともない、聯合艦隊の直属となっていた。
A 最後の第2水雷戦隊司令官吉村啓蔵少将が5月に横須賀鎮守府の参謀長に転勤したため、5月には「雪風」「初霜」の 第17駆逐隊は舞鶴鎮守府部隊に入れられ、防空駆逐艦の「冬月」「涼月」も佐世保や関門海峡の防空砲台として6月以降、使用することとなった。
2、 第11水雷戦隊の解隊(7月15日) (大本営海軍部の終戦処理方針)
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この時期、連合艦隊には直率の第1水戦があった。昭和20年も7月に入ると、本土方面の燃料事情は逼迫の度合いを増してきて、新造駆逐艦の就役訓練を断念しなければならなくなった。
大本営海軍部はこの水雷戦隊を解隊して、その乗員を特攻あるいは陸戦部隊に転用することを決意し、7月15日戦時編成の改定を行い、直属の第53駆逐隊所属艦を次のように配属させた。
初桜 |
横須賀鎮守府 |
小松宇太郎 |
楢 |
呉鎮守府 |
田代一朗 |
酒匂 |
舞鶴鎮守府 |
篠原範平 |
柿 |
杉浦幸一 |
楠 |
藤田勝雄 |
初梅 |
松本 崇 |
菫、榎、雄竹 |
クラスの乗艦者なし |
欅 |
大阪警備府 |
石丸文義、木金葆夫 |
柳 |
大湊警備府 |
有川 厚 |
橘 |
上柳 勇 |
桜 |
聯合艦隊附属 |
金丸 光 |
樺 |
高橋忠男 |
3、聨合艦隊最後の第31戦隊(帝国海軍の伝統と栄光の残照) |
聯合艦隊最後の「戦隊番号」で呼称された駆逐艦部隊の第31戦隊は、もはや往年の水雷戦隊ではあり得なかったが、大本営は連合艦隊司合長官を兼ねる小沢海軍総隊司令長官は5月20日、海上挺進部隊を編成し、その主任務を邀撃奇襲作戦及び作戦輸送とした。
前年の6月、最後の日米機動部隊の決戦「あ」号作戦でのマリアナ沖海戦では退廃し、サイパン島の失陥となった。この作戦は大本営の参謀が頭の中で考えた、現場の実情を考慮に入れない「アウトレンジ戦法」で戦ったが、現場に臨む航空搭乗員の煉度未熟と、敵のレーダーという新兵器、VT信管の開発をしらず、空母というドン柄をそろえ無敵を唱えた無謀この上の無い作戦であった。
この度も帝国海軍の伝統と栄光の残照を夢見、またもこりもせず「回天作戦」の邪道ともいえる残存の駆逐艦による夜間、隠密に九州海岸に来寇する敵輸送船船団に殴り込みをかけるという戦法(作戦では無い作戦)」を考え、「海上挺進部隊」の編成と駆逐艦に「回天」を搭載する滑り台の設置を大本営は聯合艦隊に指令した。
駆逐隊名・艦名 |
駆逐艦長 |
配属の期友とその戦歴 |
偽装待機所在 |
旗艦 |
花月 |
東日出夫 |
水雷長 寺部甲子男 |
伊勢・高雄 |
若葉△(パナイ島近・戦傷マニラ病院入院) |
山口県柳井沖・相の浦海岸 |
43駆逐隊 |
桐 |
川畑 誠 |
水雷長 佐藤清夫 |
伊勢・大和 |
野分・水雷長講習 |
蔦 |
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水雷長 |
山城・ブイン |
三宅春彦 発病入院 戦後戦病死 |
竹 |
宇那木勁 |
砲術長 式田文雄 |
武蔵・鹿島 |
金剛△(同乗の池野達郎▲) |
山口県柳井沖・屋代島日見海岸 |
榧 |
岩淵悟郎
森本嘉吉 |
水雷長 与田俊郎 |
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神通△・水雷長講習、大井△ |
隊主計長
梶間健次郎 |
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摩耶・伊良湖・梅 |
槙 |
石塚 栄 |
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クラスの乗艦者なし |
椎 |
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水雷長 篠原健次 |
武蔵・利根 |
桐 |
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航海長 大場賢三 |
扶桑・大和 |
磐手・摩耶△(パナイ島北方) |
52駆逐隊 |
杉 |
菊池敏隆 |
砲術長 堀端徹夫 |
伊勢・チモール |
飛鷹△(サイパン沖海戦) |
呉港外倉橋島・本浦港の海岸 |
砲術長 北島克己 |
伊勢・妙高 |
普砲学生・栂△ |
樫 |
黒木俊思郎
萩原 学 |
水雷長 池田 浩 |
伊勢・金剛 |
風雲△(ダバオ付近) 水雷長講習 |
砲術長 堀江一間 |
長門・ケンダリ |
摩耶・雲龍(ギ) |
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隊主計長 青木武一 |
武蔵 |
秋霜・経校教官 |
楓 |
諸石 高 |
砲術長 設楽一郎 |
扶桑・陸奥 |
呉鎮8特陸(アンダマン)
(伊勢便乗帰国) |
萩 |
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砲術長 大友 有 |
汐風 |
横鎮付 |
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梨 |
高田敏夫 |
水雷長 原田盛之 |
扶桑・足柄 |
文月・島風△・梨▲ |
・20・7・28就役訓練中
・平群島湾内
・敵艦載機のロケット爆弾命中沈没 |
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「回天」投下のアイデアは1等輸送艦からのものと思われる。艦尾が後方に傾斜している1等輸送艦(駆逐艦タイプ)は艦尾甲板の両舷にレールを敷いて「回天」数本を搭載、昭和19年末、すでにフィリッピンや沖縄に何回も緊急輸送を行なったことがあったからである。「回天」はトロッコの上に載せられウインチで引っ張って海面に投下される。この搭載施設は資料が無く編者の回想図である。 |
「竹」、「榧」、「桐」、「槙」、「蔦」に後甲板中央の爆雷砲台を撤去して、木製の架台の上に2本のレールを敷き滑り台とし、人間魚雷回天1基を積むように改造された。この「回天」を夜間、こつそりと海上に投下してくる訓練も始まった。護送駆逐艦は24〜7ノットで走りつつ艦尾から投下するのである。低速で投下するとスクリューに接触する心配もあり、着水のショックで「回天」のジャイロや特眼鏡を破損することもしばしばあった。航続距離の短い「回天」は決戦場まで運んでもらわねばならない。これまでは大型潜水艦の背中に4本を載せて出撃したものであるが、これから予想される本土決戦では潜水艦は回天運搬艦と格下げられた
「梨」と「萩」も「回天」を搭載、瀬戸内海の大津島付近で投下の訓令を行なった。「杉」「楓」「樫」も同じように改装された。
B 旧式の「汐風」と「波風」(艦隊決戦用の高速駆逐艦) |
水戦に入ったことのない「波風」が北千島で作戦中被雷、修理した際「回天」投下用に艦尾に張り出しを設けた。この両艦は回天輸送艦としてでなければ使い道がないほどの老兵だったからである。「汐風」は4本、「波風」は2本を積んだ。
佐世保海軍工廠で左右4本ずつ計8本の「回天」を投下できるようになった。この「北上」は回天運搬艦としては最大であるだけに水雷戦隊中、本土決戦の際、最有力艦となるかも知れなかったので、呉の南の安芸灘における投下訓練をしたところ20ノットで走りつつも落射に成 功した。
@ 海上挺進部隊も燃料事情のため呉あるいは柳井付近の偽装泊地で、専ら碇泊訓練を行なっていた。この戦隊は瀬戸内海西部に2、3隻ずつ分散、一堂に全部の艦が会することはごく少なかった。駆逐艦用の燃料は僅か1回半分の出撃用、3500トンしかなかった。戦隊各艦は 内海西部、伊予灘の北方に配備して米軍がいよいよ本土、特に南九州に上陸を企図してきたときにさっと出撃して船団を奇襲する計画になっていた。敵に1夜行で到達できる距離、半径百80浬以内、つまり、九州東岸か、四国沖に接近したらいよいよ出撃する予定だった。同部隊への7月分の燃料割り当ては8850屯であった。
A このように第31戦隊の7隻が呉から屋代島に隠れたのは7月20日頃であった。その直後の24日に呉は747機の空襲 を受けたものの敵の攻撃目標の大半は近在に停泊中の戦艦「日向」や空母「葛城」等の大型艦に集中した。「回天」8本を 積んだ「北上」は倉橋島の亀が首沖に隠れていたが至近弾10発をうけ行動不能となり、修理が6ヵ月かかると予想された。折角、「同天」の輸送艦に改造したのに一度も使用せぬうちにその戦力を失なつた。
B 米軍の計画では11月、南九州に上陸することになっていた。いわゆる「オリンピック作戦」である。呉や佐世保などの軍港は何回も空襲されて、このままでは第31戦隊、第11水戦は戦う前、自滅してしまうに違いなかった。3月49日、呉軍港付近が米空母機に空襲されている。そこで6月、31戦隊を瀬戸内海の小島に分散、回避、チャンスの到来迄、偽装するよう命令された。
C これらの艦は莚(むしろ)や樹木でカムフラージュした網の下に姿を隠した。この網さえ切れば何時でも出撃できる状態になる。だから敵戦闘機が目前を飛んで行っても我慢し、25ミリ機銃の射撃をさしひかえ、動けず射っことも出来ない状態は乗組員の士気を低下させた。
D 31戦隊(旗艦「花月」と第43駆逐隊の「桐」と「蔦」)の状況
山口県の屋代島(周防大島)に面した柳井の南にある阿月相之浦海岸に移った。屋代島は毛利水軍の縄張りであり、花崗岩の山の多いところで、光海軍工廠の東30キロにあり、同じ駆逐隊の「竹」「榧」「槙」は屋代島の日見(ひみ)に投錨することとなった。ここも山があって敵航空機が攻撃しにくく、大畠瀬戸を挟んで阿月と相対していた。
写真は現在の阿月相之浦海岸である。管理人は戦後この地を訪れ(「思い出アラカルト」の章を参照)当時の方々と往時を語り、兵どもの夢の跡を回顧してきた。陸上に豚やんわ鳥を飼い、周辺の住民との共生を主として待機していたことを思出す。通信士であった73期の上村民夫氏も同地を訪問していた。
E 52駆逐隊の「杉」「楓」「樫」及び「汐風」
倉橋島の南海岸の本浦港内で分散して偽装待機した
F 8月20日に挺進部隊という任務を命じられた「梨」「萩」
28日朝8時から1時間おきに空母機が5回、来襲した。ほとんどは戦闘機であり、ロケットで攻撃してきた。11時すぎ、平群島湾内に停泊中の「梨」にはロケット弾が後部甲板に命中沈没した。期友で水雷長の原田盛之ほか約60が戦死し、陸上にあがった者は計55名であった(72期の左近充氏は難を免れた)。戦後の31年、此の艦は引き揚げられ海上自衛隊の護衛艦「わかば」として復活し、第4代艦長に期友斉藤孝雄が就任したことは前述した。
「梨」の付近にあった「樺」と「萩」は、強気な隊司令の命令で対空戦を行ってしまった。空襲のため発射管は使用不能となり35名の戦死者が出たのは60キロ爆弾1発の直撃によるものである。この「樺」乗員は同型艦の「楡」から1ヵ月前に移ったばかりであった。この艦は22日、呉での爆撃で中破している。
H 偽装した駆逐艦にも損傷があり欠員を生じた
7月以降、「楢艦長」は1軸航行となった「檜」や、空襲で艦長が負傷した「椿」合計3隻の艦長を兼任した。それほど人材も不足していた。
ハルゼー艦隊の(米第3艦隊)の跳梁で太平洋沿岸にせは訓練もできず、日本海、舞鶴方面に水上艦艇は非難していたが、其処も安住の地ではなくなった。
写真は終戦で呉軍港に帰ってきた艦艇の米軍撮影空中写真である。編者もこれを見て当時を思い出す。どの艦が私(編者)の乗っていた「桐」であろうかと。これが帝国海軍の壊滅を表徴する。
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