( 戦局) 戦局はいよいよこの回天の出動をやむを得ないものとする状況に追い込まれてきた。回天特攻による敵泊地奇襲は「玄作戦」と呼称され、回天の整備及び搭乗月の訓練状況を勘案してひそかにその計画が練られていた。 一九年九月五日、大津島に回天基地が開隊され、多くの若い隊員がはせ参じ、創設者仁科関夫中尉などを中心に猛訓練に励み、一方、回天を搭載する潜水艦として、イ号36、38、41、44、46潜の各艦が指定されて搭載装置の整備が急がれていた。 回天特攻の第一陣として、イ号36、37、47各潜をもって回天特別攻撃隊菊水隊が編成された。これらの各艦はそれぞれ四基の回天を搭載し、《一一月二〇日黎明時を期して決行する》との指示を受けて西カロリン方面に向けひそかに豊後水道を出撃した。
敵の在泊を確かめた司令部は各艦に回天攻撃の決行を命じ、イ号47潜(仁科関夫ほかの特攻隊員乗艦)とイ号36潜はウルシー泊地、イ号37潜がパラオのコツソル水道に指定されて、各艦は潜航状態のまま接近した。 仁科関夫中尉以下の回天特攻隊月の乗艦するイ号47潜と僚艦のイ号36潜は一九日ウルシーの南方と北方泊地の状況を潜航偵察して、その翌二〇日黎明に回天を発進させた。イ号47潜には機関科分隊長であったコレスの穂坂英久君(機52期)が乗艦しており、その期会追悼文集に仁科中尉の出撃状況を寄稿している。彼は仁科中尉から最後に後事を託されたコレスである。
《いろいろお世話になった。只今出発する。後をよろしく頼む。俺の所持品(褌、カミソリ等)は貴様にやるから使ってくれ》 といって回天に乗り込んだ。私は仁科中尉とう乗の回天の現場指揮官であったので、艦長の命により回天の固縛を解き、その成功を念じた。《さようなら》の別れの言葉から数分後、大爆発音四つを耳にして成功を祝した。そして四烈士の立派な最期に手を合せて冥福を心から祈ったのである。 潜水艦は、戦果を確認した後、避退して三〇日呉に帰り戦果を報告た。その報告した戦果は大きかったが、実際の敵被害は写真に示すとおり給油艦ミシンネク号一隻であったという。しかしこの攻撃は、世界の戦史に初めての人間魚雷による特攻であり、敵将兵の心胆を寒からしめるに十分であった。
あの子はよく祭日に帰ってくる。今日は明治節、なんだか関夫が帰って来るような気がしてならない。朝から気もそぞろで落着かぬ。お昼になった。あの子の好きなものを作ってもみた。座敷を整頓したり、寝具を干してみたりして、あてのない人を待っていたが、晩になっても姿を見せぬ。予感などあてにならぬと諦めてはみたが、もう一度顔が見たいと願う気持で一杯だった。しかしもうこの世にはいないかもしれぬと考えたり、また正月にでもひょっこり帰ってくるかもしれぬと希望をもってみたりしながら床についたのは十時過ぎてからであった。いつかとろりとしたと思うころ、強くベルが鳴った。 あっ! 関夫のならし方だ。はじかれるように飛び起きて玄関に出た。暗い外に立っているわが子を見たとき、無事に生きていてくれたという喜びで胸が一杯になった。 そのころ、神風特攻隊のことが新聞やラジオに発表されたばかりだったので、いろいろ話している間に、何気なく聞いてみた。 若い人が飛行機で敵艦に体当りして死んでゆくなんて、本当にもったいないことだね。必死でなくても、何とか勝つ方法がありそうなものにね、関夫は何とも答えなかった。自分が今必死の作戟を前にして親に最後の別れに来ているなどということは、おくびにも出さなかった。 次の朝、早く起きた関夫は、湯殿で頭から何杯も水をかぶりながら、何事かを祈念しているようであった。ボサボサに伸びた長髪が、ことさらに気になるのも女親のせいだろうか。忙しくて散髪する暇もないの、……無言。 恐ろしい顔になったものね、疲れているの。やはり無言。お嫁さんの候補がいろいろあり申込まれた方もあるのだがね。しかし結婚というものは難しいものだよ。お父さんはいつ戦死するかわからぬ人が子孫を残すのもよいが、後に残された女の人が気の毒だといっておられたよ。関夫の前の艦長さんだった山口大佐のお嬢さんも海軍士官に嫁がれたけれども、とうとう若い未亡人になられたことを考えても青年士官は戦争が一段落を見てから結婚すべきだともいっておられたよと。 ずっと前に帰って来たさい、結婚してもよいなといっていたことを思い出しながら話した。関夫は何食わぬ顔で 〈にいったことは取り消し、取り消し、みな、取り消し、今はとても忙しいので、次に帰って釆たときにゆっくり話しましょう、といった。この日は運悪く父は田舎にいっていてとうとう会えなかった。 最後の食事があまり進まないので、今日はなぜ少ししか食べないの、掬おかずが沢山あるのでね。 それにぼくも大分大きくなったんだから、そういつまでも大食いじゃないんだよ、と笑いながらいった。しかしお酒はうまそうに飲み、お母さんもと杯をさし、二人で楽しく汲みかわした。これが関夫にとってはせめてもの別れの杯のつもりだったのだろう。 いくら腹がきまっていても、母を目の前にしてはさすがに胸がせまり、食事もノドを通らなかったのではなかろうか。 私が駅までぜひ送りたいといったが、門前でいいよといい、母がつくった握飯を風呂敷に包んで、手にぶらさげ、ゆったりした足どりで去っていった。 どこから来て、どこへ行くともいわないで行ってしまった。わが家の桃太郎は待てども待てども鬼ガ島から帰って釆ない。 |
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