リンク元に戻る


米潜わが対潜艦艇に挑戦
(駆逐艦水無月) 藤井宗正




海軍大尉 藤井宗正

長門 阿賀野 水無月
一九年六月六日戦死 二二歳二月
府立住吉中学校(大阪) 
養父兵蔵 養母スエ
第五二分隊の軍歌係 被服月渡品係




 駆逐艦は、もともと潜水艦攻撃、制圧を主要機能の一っとするものであって、敵潜水艦に対しては絶対優位に立つものと考、えられてきた。ところが、この時期に至って、船団護衛中などの駆逐艦が相次いで逆に潜水艦に撃沈されるという事象が出現して、憂うべき重大間藤となった。

 機動部隊が1あ」号作戦計画にょりタウイタウイ泊地に集結していたとき、この泊地附近に敵漕が密集していた。船団を護衛しこの附近を航行中の水無月(藤井宗正)が六月六日被雷沈没、それを故助に向った早波(
山垣純一郎)が七日、谷風が九日に撃沈きれた。藤井中尉は戟死し、山垣純一郎は早波で救助されたただ一人の士官であったと聞く。
 
 渾作戦に参加した風雲(
池田浩・生還)が八日ダパオ湾外で相次いで撃沈され、それ以前にも前図に示すとおり電が五月一習撃沈され、浜波と空母千歳も同じ日被雷している。
 
 戦後、資料で見ると米潜ハーグ一号は一艦でもってわが駆逐艦四隻を撃沈しており、敵ながら驚くべき攻撃能力と認めざるを得ない。
 
 このように敵潜水艦の能力に対比して、わが軍の対潜水艦戦能力が、その装備及び戟法の両面において、極めて劣弱であることが日を追って立証されていった。 6日・米雪の対慧艦霊力の画然たる優票差から、12妄においてわが潜水艦の大量喪失を招き、また他方において敵潜水艦の跳りょうを許して水上艦艇、船舶の大損害を強いられる結果となった。

 米軍がA・S・W(A邑・S旨arぎeWarIare)と呼ぶこの対潜水艦戦における日本海軍の著しい立ち遅れは太平洋警の霊的敗因の最臭きなものの一つであり、以上述べてきたようにそしてこれから述べるように、七十表琴友の尊い犠牲もこれに起因するものがおびただしい数に上るのである。
 
 パラオからパリックパパンに給油に向う聯合艦隊附属のタンカー輿川丸を護衛中の駆逐艦水無月には、砲術長として小柄で美しいソプラノ声の持主藤井宗正中尉が乗艦していた。この艦の艦長は磯部慶二大尉であった。
 
 六月六日、欧州戦線では連合軍がノルマンヂ1海岸に上陸を敢行した日であるが、この日この船団はタウイタウイ泊地の雪にさしかかっていた。告別三時四五分ごろ護衛中の水無月は敵潜を発見して攻撃に向っていったが、その反撃を受けたらしく消息がなくなり、七日から飛行機による捜索が行なわれ、そして救援のため早波(
山垣純一郎)、玉波(河野千俊)、谷風などが派出されたことは既に述べた。

 水無月そして救助に向った早波、谷風などの遭難がタウイタウイ泊地附近であっただけに、待機中の艦隊乗貞は等しく不安の念にかられつつあった。水無月乗員で救出されたのは四五名でそのうち士官は航海長だけであり、艦長も藤井砲術長も救出されなかった。
 
 生存者の証言で、正午三〇分過ぎにタウイタウイ泊地の二〇三度四五浬で被雷沈没したことが判明した。前述のとおり、敵潜水艦の新しい (護衛艦を目標とする)挑戦戦法に対し有効な対策もないまま、マリアナ沖海戟に臨んだということが当時の実状であった。
 
 字垣糧中将の著「戟藻録」にこの時の情況が記述されている。(敵潜水艦二村シテ、貴モ強者デアルベキハズノ駆逐艦ガ相次イデ反対二敵潜水艦二撃沈サレルトイフ事態ハ、ワガ対潜戟ガ米潜水艦ノ能力ト比較シ、質的二憂フベキ状態デアルコトヲ明示シタ)と。魚雷戦、夜戟で鍛えられた駆逐艦乗りも、レーダー、ソナー、対港口ケット等の対潜戦装備において格段の差のある状況下では、切歯やく晩のほかなかった。